日常でもネットでも「論破」なんか何の役にも立たない、しない方が絶対いい

ひろゆきインターネット
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他人を論破したくなったら

日常はともかくとして、ネットはいわゆる「論客」と呼ばれる人、あるいは「クソリプマン」と呼ばれる人がうようよいて勘違いしそうになります。

論破力、という言葉が出てきたように、弁舌の力は世の中を生き抜く力だとされることが多いです。

むかつくあいつにギャフン!と言わせる経験がしたい。それは畢竟、ネットで叩かれてる「スカッとジャパン」と根っこが同じなのだと思います。でも弁舌が立つと自負する私だからこそ、思うところはあります。

論破なんて良いものじゃないぜ、と。

信念なき議論は非生産的である

そして、その理由は一つだけです。それはそもそも議論を何のためにするか、っていう話から考えればおのずとわかります。

その答えは「共通認識を得るため」でしょう。

ここがわかってない人が会社とかにいるとホンットウに悲惨で、あとはもういかにその人が正しいかを力説されて終わります。

こっちが丁寧に「これって…こうですよね?」「てことはこれは…こうですよね?」「だからあれは…こうなりますよね?」って言っても意味なし。

もう常に「自分が正しい」「自分が正しくなければ許さない」という前提があって、後はそれを他人に言って聞かせるだけです。柔軟性もクソもなく、議論が成立するはずもない。

そう、議論は一定以上の心構えと技術がなければ成り立たないのです。

論破というとやっぱりひろゆき氏を参考にしたくなります。

技術としては一級品かもしれません。でも、議論の目指すところは「心持ち」

心境、あるいは信教といってもよいでしょう。お互いがお互いを開示し合って、どこまでわかり合えてどこから分かり合えないのか確かめる作業なのです。これは「共通認識を得ること」だと言い換えてもいいと思います。

しかし、そういった目的がひろゆき氏にあるようには見えません。週2回以上のペースで見ていても、どうにも主張や正義が伝わらないのです。たぶん、相手をイラつかせて楽しんでいるだけなのだと思います。

その状態で議論をやって何の意見がわかるのか。

何が人間として正しいのかわからない人間が「それは正しくないと思います」と言うところの「正しくない」って何?

匿名掲示板やYouTubeのコメント欄では「ひろゆきさん本当尊敬する。首相をしてもらいたい」というのがマジで見られますが、これに私は断固反対します。

いつも強いほうについて、のらりくらりと批判をかわす人間に何ができるのか。信念とか正義がない人がなぜ、国民を引っ張れるのか。

私には見えてきません。

論破は無意味、なぜなら論理的正しさしかないから

議論には一定の技術や心構えが必要だと先ほど説きましたが、その「心構え」というのは、論理では説明できない部分にあると私は思っています。

つまり「どうしても譲れない領域」とか「ここからは譲れる領域」とか、そういう境界線です。そのラインは正義だとか信条など、人間がぜったいに論理でコントロールできないところで決まっています。

やたらと他人を論破しにかかる人にはその観点が欠けています。いかに論理で相手の「譲れない部分」を言い負かすか、自分の論理的な正しさを認めさせるかにしか関心がないのです

当然、本気で世の中を良くしたいとは思っておらず、何となく「勝てそうな」ほうにつくのみ。ディベートに似ていますが、ディベートはくじ引きで立場が決まるのでまだフェアです。

議論の意味も理解せず、小手先の技術の習得に磨きをかけることの無意味さを、ネットのクソリプマンが開陳する恥ずかしい「正論」に見出せます。

なぜ知ったように私が言えるかというと、私がまさしくそうだったからです。議論といえば勝つことが目的で、勝てば気持ちがいいしかっこいいと思っていました。

でも、実際は違いました。論破しても駄目なのです。私は長年のレスバトルの経験で、徐々に「論破」の無意味さを知っていきました。

他人を論破しようが、価値観は変わらない。

ただ論破された側に悔恨や憎悪が残って終わりです。

ネットに自称論破人(ロジカリスト)があふれる今、議論の意味をもう一度考える時が来ているのではないか、と思います。そしてきっと、師と仰ぐべきはあのひろゆき氏ではないでしょう。

あなたの身の回りにいる、おのれの中に確固たる善性や正義を宿す人間を、どうか師匠にしてください。すべての議論はそこから始まります。

論破といえば「嘘松」ですよね。こちらで考察しています。

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