「権利が欲しければ義務を果たせ」はなぜ支持される
さて、以前、このような記事を書きました。
要旨は「権利が欲しければ義務を果たせという考えは色々と間違ってるぞ」です。詳しくは実際に読んでいただくとして、今回はこういった誤った考えが支持されがちな理由を考察します。
学校教育とお仕着せの「人権」
結論から言えば「学校教育自体、権利が義務の裏返しであると誤解させる性質のものだから」。
「膾炙している誤解のほとんどの責を、学校教育に求めても構わない」なんてことはありません。私は以前にこんな記事を書いています。
私がこの記事で言いたかったのは「素晴らしい理念や理想を持っていても、それを全て教師側に押し付けるのは望ましくない」ということです。
じゃあ誰に押し付けるべきかというと、それはもう圧倒的に上、国とか自治体です。
https://withtulpa.com/average-teachers-cannot-teach-developmental-disorder-children/
今回も国や地方自治体レベルに大きな対象相手への批判です。
まず、学校では一応「人権」というものを習います。人権とは人が生まれながらにして保持している権利のことで、狭い意味では「基本的人権」を指します。
例えば自分の意志で職業選択できるとか、何かを考えるとか、どこに住むとか、財産を勝手に他人に奪われないとか…ですね。これらを含めて基本的人権と言います。
ところが翻って考えてみてください。あなたが学校で習ってきた「人権教育」、いったいどういうものでしたか。
私はよーく覚えています。人権教育とはつまり「思いやり」のことであり、それは圧倒的に個人・対・個人の問題、とされていました。
例えば「いじめは人権を迫害しているから、みんなが少しずつ他人を思いやってあげよう」とかね。
そんなのお前だけだろ、という意見もあるでしょう。でも私は「人権教育=思いやり」になってしまっている根拠を提示できます。
人権啓発標語の入賞作品がこちらに紹介されています。ちょっと抜粋して紹介します。
「それはダメ!」 その言葉にも 思いやり
ありがとう その一言が おもいやり
さしのべよう 思いやりの手 さりげなく
https://www.town.aridagawa.lg.jp/top/kakuka/kanaya/7/jinken/5735.html

なるほど確かに、思いやりという用語が予想以上に濫用されています。
しかしよく考えてみてください。
いじめや差別は、思いやりがないから生まれるのか?
もちろん、そうである類のものはあります。しかし、思いやりがあったとしても差別が生まれる例なんていっぱいあります。例えば足を失った障害者に対して、その人の周りのすべてのことをやってあげるのはどうなのか。
私は足を失ったことがないのでわかりません。が、それを屈辱的だとか、できることはやりたいと思う人がいても全くおかしくないと感じます(自己決定権の有無が老化のしにくさに影響を及ぼすという結果も報告されています)。
思いやりがあれば全て解決、というわけではないのです。
また、そもそもこういった「人権は思いやりだ」という思想は(理念だけに目をつぶればよく練られている)文科省の「人権教育の内容及び指導方法等」にもそぐいません。
個人の尊厳や人権尊重の意義、人権の歴史や現状、国内法や国際法等々に関する知識、自他の人権を擁護し人権侵害を予防したり解決したりするために必要な実践的知識等も含まれる
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/024/report/attach/1370619.htm
人権を学ぶ上で、その歴史、現状、法律などの知識も含まれる、とあります。本当に歴史や法律が含まれるなら、例えば以下の条文を覚えていない人があまりに多いように思われるのはなぜなのか。
憲法14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
日本国憲法第14条
暗記せよと言いたいのではありません。この意味について、人権教育でちゃんと学習した人が、一体どれほどいるのか、という話です。
「政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」の意味。
つまり、この条文は「人権=思いやりの問題」という教育を真っ向から否定します。差別とは政治的、経済的または社会的、という、個人対個人の関係性ではどうしようもないエリアの話だ、というのです。
それを意図的に「思いやりがあれば差別が解決する」という方法にしているのは、インスタントで大雑把な人権観念を子どもたちに『植え付けたい』という教師陣の思惑があるわけではないでしょう。
そこまで教師も悪意に満ちているわけではなく、「人権は思いやりのたまもの」としたほうが、むしろ学校運営として健全にすむし、しかもラクなのだと思います。
「人権は思いやりゆえに生まれる」は学校運営の上でラクである
例えば、今ちまたを騒がせている「地毛証明書問題」につながってきます。
都立高校の4割余りで、髪の毛が黒以外の色や、くせ毛の生徒に地毛であることを証明する届け出を求めていることが分かりました。東京都教育委員会は「事実誤認による頭髪の指導を防ぐためで強制ではない」と説明している
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210225/k10012885111000.html
あるいは「下着の色何色か問題」とか。
福岡県弁護士会は22日、福岡市立中学校全69校を調査した結果を発表した。下着の色を指定する学校が約8割に上った
https://www.yomiuri.co.jp/national/20201223-OYT1T50108/
これの何が問題かは自明なのでおいといて、例えば生徒がこの件で一致団結して「地毛証明書は人権侵害だ!」と騒ぎだしたら。大変ですよね。
だから、学生側も自発的に「これは人権侵害です、我々の人権が侵害されています」と立ち上がる権利があります(日本の基本的人権はそういったデモの権利をも人権として認めています)。
本来、人権とは強者からの思いやりによって生まれるものではありません。
普段から誰かにやさしくしているから人権が与えられるのではなく、どんなに他人にやさしくない人にも与えられているものです。
強者によってではありません。もとから人に備わっているものです。ある意味で「唯一神によって」とでも言いましょうか。人権とは、理由なしの究極的な権利です。
しかし、人権の定義を捻じ曲げておくと、生徒は「人権を与えられるためには、普段から行儀よくしておく必要がある」と学び始めます。本当はそんなことないのに。
自身が人権にそぐわない扱いを受けたと感じるその時々で、言論という武器を手に取って戦い始める自由が与えられています。
しかし、そんなことをされてはたまったものではありません。
ある程度の管理教育という強権を与えられた組織である学校が「健全に」運営を続けるには、理不尽なルールに盲従する学生が必要です。
「人権は元から人が備えていて、不当迫害を感じれば闘争の結果それを取り戻せますよ」と教えると、都合が悪いのでしょう。
むしろ地毛証明書やパンツの色指定校則という校則に真面目に付き合い、文句一つ言わない学生たちのほうが都合がよいのです。
つまり、校則というルールを適用していくために、人権の定義がないがしろにされ、その定義で育った子どもたちが育って「権利は義務と表裏一体だ」と主張し始めるのではないか、と私は考えています。
権利は誰もが持ち、主張する機会がある
「人権が欲しければ、お前はおとなしくしていろ」という風潮のまま育っていくと、次第に「立ち上がる弱者」たちにも眉を顰める人々が出始めます。
LGBTの奴らは権利だけ主張するな、とおっしゃる、あの匿名掲示板やツイッターリプ欄の有象無象がそのよい例ですね。
この「お前だけ権利を主張するな」「子作りもできない奴らが権利を主張するな」論はまさに「権利と義務は表裏一体論」とでもいうべき詭弁に過ぎないのですが、けっこう誤解されてしまっている気がするので書きました。
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