スカッとする話、コピペ、嘘松ツイートのオチが必ず「拍手喝采」の理由

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嘘松の拍手喝采

「嘘松」という言葉が私は大嫌いです。

嘘松だガセだ話が出来すぎてるなどと、一個人の体験を書いたツイートごときに何の実入りもない無益なリプが所狭しと並び、真贋を見分けることの「無意味さ」を我々にはしたなく開陳している。

真偽を見極める能力がネットで重要なのは言うまでもありませんが、個人のエピソードにまで嘘だホントだを適用しだすと、収拾がつかなくなるものです。

それが本当なのか嘘なのかを自分が判断できることはほとんど稀で、例えば「TOEICで842点取った」なら明らかに嘘だとわかりますが、

そうでない場合のほうが多いのに、自分が信じられないものを「嘘松だ」と決めて耳を塞ぎこむ姿勢に人間としての知性を感じない。

ま、それはそれとして「嘘松」とされるエピソード、特に昔のコピペにおいては、最後のオチが「拍手」で締めくくられていることが多いと思ったので、記事にしてみました。

拍手喝采は胡散臭い

私は嘘松連呼厨が大嫌いですが、拍手喝采エピソードに何らかの胡散臭さを感じずにはいられない、というのも事実です。

ブルーチーズの強烈な匂いは好みが分かれますが、その臭さを楽しむ人も多いかと思います。

「スカッとジャパン」なる「性格が悪い人を、素朴な一言で身近な人、他人が追い返した」ことを紹介するテレビ番組があって、何かこう、それを見たときと同じような気恥ずかしさがあります。

拍手エピソードが何となく胡散臭い、というのはたぶん、「スカッとジャパン」の嫌われぶりを見るにある程度、共通認識としてあるとは思います。

なぜ嘘松の拍手喝采エピソードは胡散臭いのか

なぜ胡散臭いかといえば、それはまあ「嘘でしょ~これは~笑」みたいな雰囲気があるからでしょう。では拍手がなぜ嘘臭いのか?

「拍手」が持つ意味。

拍手は一般的に「賛同」「称賛」の時に用いられる、人間の一般的な感情表現です。

拍手が起きる場面といえば、日本ではコンサートやライブ、講演会などにほぼ限られており、日常で聞く機会は、まずない

公共の場で拍手を聞くことがあるとすれば、それはたぶん「○○にあるピアノで弾き逃げしてみたwww」という(私がホンットウに苦手な類の)動画の撮影に立ち会った時ぐらいでしょう。

ああいうのいかにその人がうまくても自己顕示欲をビンビンに感じて強烈に恥ずかしくなって曲を楽しむどこじゃないので、おとなしく全部ブロックしてるんですけど。

ここで大事なのは、拍手が「ふさわしくない場」で使われることの意味です。

悪い言動をする人間がいて、その人間を(多くは子ども、外国人など「素朴」とされる)別の人が撃退した。これに賛同し、称賛するという目的で拍手が使われる。

でも翻って考えてみてくださいよ、日常で拍手聞く場面なんてあります?

ないない。儀礼的無関心を貫いている電車、バス、レストランなどで、いかにその場の空気が一致したとしても、悪い人がその場にいる以上、あんまり敵対的な言動はしたがらないものです。

そもそもそういう人って「論破」されることがないんですよ。論破されるとわめきだすから。

論破されて顔を真っ赤にして沈黙するようなことのほうが珍しい。経験則として。

また、ヘンな人に恨みを買うのが怖いので、拍手を始めるファーストペンギンが現れるとは考えにくい。以下のコピペとか。

今日スーパーに買い物に行ったんだけど障害者駐車場に若いDQNが
爆音上げながら斜めに駐車してきた

ちょうどそこに巡回して来たパトカーが来てマイクで
「障害者の方大丈夫ですか?店内にご案内しましょうか?」って話しかけてた

車から降りて当然のごとく普通に立ってるDQNに
「歩けるのですね。どこの障害ですか?頭ですか?」ってさらに話しかけてた

DQNはなんかしゃべったようだけどすぐ車に乗ってどっか消えて行った
女子高生数人がパトカーに向かって拍手してた

これ実際のコピペですけど、「どこの障害ですか?頭ですか?」なんて発言、警官がパトカーのマイクでやってたらドン引きですよ。私なら拍手どころじゃない。所轄に電話いれるぐらいひどい。

もしこれに拍手する女子高生がいたならその人達の常識を疑います。

現職警察官が知的障害者への差別意識を隠そうともしてないわけですし、現実世界で展開される可能性は低い(警察官は市民の模範になる存在なので、道交法さえ「違反しません」という誓約書を書かされます)。

ということで、拍手が胡散臭いのは「現実世界の日常で拍手を聞く場面なんてないから」だと言えます。

拍手が嘘松エピソードで多用されるのはなぜか

それにもかかわらず、拍手がエピソードでいわゆる「オチ」として多用されるのはなぜなのか。うさん臭さを抜きにして考えると、これは物語の設定上、ごく自然なことである、と言えます。

もし拍手エピソードが全くの嘘であったなら、の話ですが…。

実際に嘘松エピソードを作って考えてみればよいのです。

授業参観。給食を残させないことで有名な先生の授業。

授業が終わった後、「うちの子が○○を無理やり口に入れられた!」とどこかの親が言う。

先生は「教育上何も間違ったことはやっていない、好き嫌いがないのは当然のことだ」と言い放つ。

そこで教室にいた生徒がズバリ。「え~でも先生、この前ニンジン残してたよ」

それを聞いた親御さんたちは生徒の勇気に拍手。先生は恥ずかしくなって、消えてしまいそうだった。

……これは架空のエピソードで、私が今さきほど作ったばかりのものなんですが、どうですか、綺麗にまとまってません?

実はエピソードを「創作する」上で、拍手喝采は非常に良質なオチになってくれるんです。

現実世界と仮想世界を切り取るかのように、あえての「創作ですよ」という可能性を見せつつ、しかしこれが現実に展開された物語である可能性は否定しない。

多くのエピソードには拍手後の話が載っていない。その部分が蛇足であることを創作者がよくよく知っているからです。

つまり、嘘の可能性があるとしても「拍手をオチに使って、物語をきれいに終わらせたい」という欲求には勝てず、その結果、嘘臭いような本当のような、ちょっとクサイ得も言われぬ奇妙なスカッとエピソードが展開されていく。

嘘松を「楽しむ」余裕

こうして分析しているときの私は決して激怒しているわけではありません。むしろこの「クサさ」がたまらないのです。

自分が言ってやったぜ!スカッ!って言動じゃなくて、あくまで周りの人の話なんですよね。

周りの誰かが、別の誰かを撃退した。強い人に乗っかってるだけ。

別に自分はすごくないのに、なんかすごそうに錯覚させることができる。

よく考えればそれがなぜ実話としての「美談」になるかもよくわからないのですが(非常識な人間を晒し上げてるだけですし)別にそうカッカする必要もなくて。

ただそのクサさを楽しめるようになればいい、ってわけなんです。

もちろんそれが無理な人もいるでしょう。私もピアノ弾き逃げ動画のことはどうしても好きになれないですしね。

まあ、それなら別にそれでよくて、ただこう、なんでもかんでも「あれは嘘松!これも嘘!ガセ!」と言って回るような、感受性が鈍った人間にはなりたくないなぁ、と。

嘘臭いとわかっていても、それをその形として楽しむ寛容さがあれば、日常も楽しく生きられるなぁと。

ちなみにスカッとジャパンは誇張されすぎててもはやコントの域なので、さすがにテレビ大好きうちの家族も「いやいやこれはないやろ~…」とドン引きしていたのが印象的でした。

あれは実話ではなく創作実話、コントとして見た方が面白いように思います。別にスカッとはしませんけどね。

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