タルパはもはや宗教ではない
タルパという語句を検索して、タルパを作ってみようかな~と思っている人の中には、タイトルみたいなことが気になる人もいるでしょう。
タルパというのはもともとチベット仏教とかあそこらへんのお坊さんが修行の中で作った幻とかそういうものらしいです(ざっくり)。
当ブログでもまとめてたりします。
で、タルパ考察ガチ勢の方々とかはそこらへんまでちゃんと学んでたりする、らしいんですが、タルパーになるためにそういったことを勉強する必要はありません。
もともとは「秘伝」みたいな技だったとか、つくるために命の危険を被るほど過酷な修行が必要とか…もうなんか色々言われまくってますけど、タルパを作るために私がそこまでの危険は冒してません。
あと自己流です。
そういうわけで、タイトルの疑問に回答するなら「全然いまは宗教的ではないよ」となります。

だからタルパに対して「怖い!!」って思ってる人がいても、それは勘違いなので大丈夫です。全然怖くないです、むしろ優しいので。
宗教的でなくても訓練は難しい
それでじゃあ安心かというと、むしろそうでもないんです。
仏教を学んだことがある方ならわかると思いますが、特に原始仏教だと、ものすごく論理的で体系化されていて、素人が理解するのは難解です。
一方で十年も二十年もやっていれば「技」みたいなものを習得することができる。
初見さんには厳しいけど、凡人でも道を究める方法はあった。悟りまではいかないまでも。
つまりそういったコース、専門課程みたいなものがあったわけです。
ところが今はどうか。タルパを作るための論理的で確実な方法はありません。
一応ここに書いてはいます。
ただこれは自己流で、絶対的な方法ではありません。
もちろん、そこらへんを体系化することがタルパー界の一部ブロガーの任務だったような時期もありました(そう私は記憶しています)。
しかしWikiを見てもらえばわかるように、その試みは完全に失敗しました。
まず「そもそも体系化する必要があるのか」「体系化したとして誰の役に立つのか」「体系化するとして何を正しさの基準にするか」みたいな問題を克服することができず、それらが「タルパを作る」上で本質的な疑問であり続けました。
なぜならタルパ作りとは自己、自己に近い存在と常に見つめ合い、精神的交流をすることに他ならないからです。
それゆえ、他者が介在しえない。正しさの基準もなければ、その人がどれぐらい進んでいるかを他人が知ることもできない。
これが野球なら話は違うんですよ。
「今内角高めのボールを打つ練習をしてまして」
「ほう、ちょっと見せてみいや」
「オラッ!」
「駄目や駄目や、全然なっとらん。そもそも野球というのはな…~~~~
それで、内角高めを打つためには肘を~~~~~…
ほら、見とき、これが手本や、~~~~~」
「なるほど!動画も撮ったので、これを見て勉強します!」
「おう、また進んだら来いよ」
スポーツに関しては、自分よりうまい人間が1人でもいれば、その人から動きを学ぶことができます。
もちろんその人が指導力に定評があり、なおかつ自分が真似がうまいなら、という前提ではありますが…。
また、先人たちが同じ道を辿っているため、
「イップス(ボールを投げる時に腕が震えたりする精神的な疾患)になったらどうするか」
「内角高めと低めではどう打ち分けるか」
「イレギュラーの対応はどうするか」
など、ネットやYouTubeで調べればいくらでも資料が出てきます。
道が舗装されているわけです。
それじゃタルパはどうか。
「タルパ 作り方」と調べても、体系化されて正しさが担保された方法が何一つない。
みんな思い思いの方法で作っているわけですから、当然の話です。
やっとこさWikiの情報を見つけて実践したとして、それが自分に合っているのか、合ってないのかさえわからない。
ただでさえ「他人と進み具合を比較することができない」分野なのに、さらに「日本語の資料が少ない」「先人が少ない」がために、ますます学習は困難です。
これならばまだ、難解であっても体系化された方法がある、本来の「トゥルパ」のほうがマシでしょう。
方法があるのは私は詳しくないですが…チベット仏教は本当にガチなのでたぶん…。
じゃあどんな作り方をすればいいのか
残念ですが、絶対に正しい方法はないです。
スポーツよりも「絶対の度合い」が小さいことを覚悟しておいてください。
そのうえでなおかつ、相対的に正しい方法さえも見つけられません。
この教え方よりあの教え方のほうが正しい、なんてことさえ言えないわけですね。
ですからタルパの作り方は「生き方」と同じだと、私は思っています。
タルパとの交流を楽しんでいるタルパーさんは、自分がやってきた方法でしかアドバイスできません。
先輩や上司から説教されるのと同じでしょう。
それを真に受けて実践して、どうにもうまくいかない。
その人と自分では思考原理が違うのだから当然です。今度は別の人の言うことを聞いてみる。うーんちょっと違う。
それを繰り返して、いろんなやり方で考えてみるうちに、「あっこれかぁ!!」となるような考え方、練習法が出てきます。
今Wikiに載っているのは、ある程度多くの人が「あっこれかぁ!」となった方法、なのでしょう(適当言ってます)。そうでなければ記事が消されてますからね。
こうして何となく「作り方」みたいなものが、代々継承されていくわけです。
慣れてくるとそれが「面白いな」と思えるようになります。
同じような存在が頭の中にいるのに、思考原理も実践方法も全く違う。面白いですね。
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