守られない自殺報道ガイドラインと煽情的なマスコミ、民衆の需要

倫理学
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自殺報道ガイドラインの意味

この記事は以前の記事

の続きです。そちらを読んでもらえるとよりわかるかもしれませんが、読まなくても大丈夫なように書いています。

リベラル層が嘆いて見せるのは「民衆の頭の悪さ」

この国はもうおしまいだ、どうにもならない、それもこれも全て民草の頭が悪いからだ…と思っている節があります。

私の文面からそれが見えていたらそれは誤解ですよ、と伝えたいです。

私はいつも「自分の意見を持たず、非難しかしない人」のことを当ブログでクリーチャーだゾンビだと散々書きたててますが、それは私自身、ゾンビになっていた状態から足を洗って、こうして文章で自省することを覚え、血の流れた(正義をもつ)人間へと生まれ変わったからです。

変わろうと思えば人間はいつでも変われるという確信があるからこそ、こうやって文章にするのです。

本当に諦めていればいちいち他人のために時間を割きません。

民衆とマスコミの蜜月

閑話休題、マスコミとセットになっていつも語られるのが「民衆のアホさ」です。

自殺報道について毎回のようにそのアホさがこれでもかと喧伝され、自殺問題をエモーショナルに書きたてるマスコミに批判が殺到し、そのマスコミの記事をありがたがる仮想民衆に非難がいきます。

でも、もしかしてそんな民衆など、どこにも存在しないのではないか?と思いました。

つまりリベラルやインテリが「これだから馬鹿どもは…」と偉そうに嘆いてみせるアホ人間などいないのではないか?

なぜこの記事を今になって書いたのかというと、それは今現在まさに自殺問題で騒がれている某有名人のためです。

おそらくリアルタイムで読まない人にはなんのこっちゃだと思います。「2020年7月18日に自殺した有名人」というキーワードがあるので、あとは自分で行きついてください。

マスコミは我々の「気になる」を的確に刺激する

我々我々とうるさいほどに書いていますが、それは当然、私自身も「民衆」の一人だからです。

インテリだなんだといっても、日本はイギリスと違ってエリート層と中間層、底辺層の格差がそこまで激しくないようです。

マスコミの記事に着目すると「いかにして読まれるか」を追求しているだけあり、そのタイトルも見出しもみな「読みたい」と思わせる、衝動的にクリック、タップしてしまうような内容ばかり。

自殺記事なんて「○○首をつり発見 自殺か」と書きさえすればそれでよいのです。

今回の自殺報道もそうで、速報が自分の目に飛び込んだとき思わずクリックしてしまいました。そこまでの流れは半ば自動的でした。

心臓が一瞬跳ねて、信じられない、嘘であってほしいという願いを込めて。

その流れは「アホだから」とか「知能指数が低いから」という説明がいかに的外れかを物語ります。

人間の「知りたい」という欲求をピンポイントで刺激し、それを満たすことを仕事にしている人達が、芸能人の自殺という「とびきりの」ネタを使って書いたものなんです。

これはもう、並の人間じゃ対抗できません。PVと収益に貢献してしまいます。

これを知能指数や倫理観という問題に帰着させることこそ、問題の本質を曇らせます。

我々の中に「芸能関係について毎日毎日気になってしょうがないアホな人」はほとんど存在せず、むしろ「衝動的にタップしてしまう普通の人」のほうが多いのではないか。

エリートと民衆との間に対立などなく、誰かが人間である限り、民衆の一人なのです。

自殺についての報道ガイドラインは守られない

とはいえ、マスコミのその姿勢があまりにも乱暴だ、行き過ぎていると指摘されることも多いです。

冷静になって考えれば誰かが死んだことをネタにして飯を食うなんて不謹慎にもほどがあります。もっと慎重になってほしいとは思います。

各国のマスメディアが自殺についてどう報道すべきかをまとめた、世界保健機関(WHO)のガイドラインを見てみましょう。

メディア関係者の方へ
メディア関係者の方向けの情報について紹介しています。

自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと
センセーショナルな見出しを使わないこと
写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと

以上が「やってはいけないこと」リストとして紹介されています。要するに上を守れ、ということ。

残念ながら全然守られてないのが現状

インテリがこれを毎回持ち出して「ほらみろ、マスコミにその責任がある、センセーショナルに書くことは民衆を煽情するだけだ」と言います。

でもそれ、順番が逆なんですよね。

マスコミは我々が知りたいと思う情報を、知りたいと思うように仕向けて書いているだけ。

一流超有名芸能人の自殺と聞けば、ほぼ全員が全員その記事をクリックしてしまうでしょうし、死因や死んだ理由も気になってしまうでしょう。

そういった「人間の根源」つまり「知的好奇心」を、マスコミはただ利用しているだけなのです。

もちろんそれがevilであるとは思いますが、evilだと叩いたところで民衆が「賢くなる」わけでもありません。

例えば現在、Web版週刊文春の人気上位記事には件の有名人の自殺記事がズラリと並ぶ、人間の欲求が丸見えのグロテスクな様相を呈しています。

別に文春がこれらを読んでほしいわけではなく、普段のシステムとして人気記事上位表示機能があり、ただ多くの人が読むから上位に食い込んでいるだけです。

上位にあるからこそ新しい人が手に取り、さらに「人気」になる…。

そういった構造を作っているのはマスコミに違いありませんが、読んでいるのは結局我々。

そしてその我々には、民衆を唾棄したくてたまらない「インテリのだれか」も入っている。

センセーショナルに煽動しているというよりも、むしろ我々がそれを望んでいるのではないか?

それなら「マスコミ」とか「民衆」を叩いても意味はなく、そもそも自殺問題をネタにして意見を発信することさえ「煽情している」ことにならないか?

例えばツイッターのインテリ層は毎回「マスコミはこういう自殺報道の仕方をやめろよ」と言って回りますが、それこそが情報の拡散に寄与してしまっていることに気付いていないのか?

アホな民衆とやらを叩く人には、その目線が欠けているように思われます。

自分だけは例外でいられるはずはなく、たいていはすでに取り込まれていることに気付かない。

法律という道具の適用が難しい理由

一方、これらを厳格に守った報道をしても効果は望めないように思われます。

マスコミが報道しないなら、民草は好き勝手に理由を付けてあーでもないこーでもないと語りだすだけだからです。

マスコミは情報を向こうからこちらに受け流しているだけであり、マスコミがやらないなら民衆が取りに行くだけの話。

極端な話、自殺報道を全くせず、業界内で徹底的に緘口令を敷いても、やはり「コロナウイルスにかかって死んだ」とか「○○によって干された」だの言いだすのがオチ。

故人や遺族への中傷が寄せられることだってあるかもしれません。

視点を変えて見てみれば、マスコミはそれらデマを抑制する方向に働いているとさえ考えられます

擁護したいわけではなく、そういう説明もできる、という話です。

他人の死を語る心は倫理的には不健全ですが、不健全でも語らずにいられないのが人間です。

当然、自分が好きな人が亡くなったら、その人への熱い思いをぶつけることも認められるべきです

マスコミと個人の差は曖昧で、法律が全て発言を許さないのなら、民衆それぞれだって割を食うことになります。

結局我々は「おのれの良心に従って行動する」という当たりまえの結論にしか至らないのでしょうか?

その良心がいかに優れていても、知的好奇心には勝てないのだという事実をなかったことにしながら…。

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