学校の勉強は大多数、無意味です
今すぐこのページを閉じて!そして5chで「学校の勉強って役に立たないよな」ってスレを建てよう。あなたを論破しようと言論マンと逆張りマンが待ち構えているぞ!
彼らから存分に「勉強が役に立つ理由」を聞いたら、その時もう一度ここに戻ってくるといい。それら全てを今から論破するので。

学校の勉強は基本的に役に立たない
教職関係の仕事に携わっていたことがあって、その時から本当に疑問だったんですが、なぜ「学校の勉強が役に立つ」ことにしたい大人がこうも多いのでしょうか?
そんなに自分の時間が無駄になったことを認められないのか?
学校の勉強なんて基本的に、ほとんど役に立ちません。
そういうと、絶対に以下のような意見が出てきます。
「君たちが使っているパソコンも、勉強を一生懸命した人が作ったものなんだ。社会をよくするには勉強が必要なんだよ」と。
先生が言いがちだし、言われたこともあります。
当時は「確かにナァ」と納得していましたが、これが詭弁に他ならないと気づいたのはだいぶ後になってからでした。
学校の勉強を使って社会をよくしているのは、世の中の何割なんでしょうか。
例えばコンピューターをつくる人、といっても色々いるからとりあえず「プロセッサー設計者」とでもしましょ。
その人は学校で習ったことを使ってプロセッサーを作っているのか?
否。
使う知識をその時に学べばよい
仕事で使う知識を使って、仕事をしているのです。
あるいは選挙の投票率を見てみても、とても公民という授業が我々の役に立っていたようには見えません。
あの授業を受け、それでも別に選挙に行きたくならない人が少なくとも半分はいるという事実に頭がくらくらします。
本当に公民が「必要」なら、なぜあんなにも投票率が少ないのか?
学校の勉強が全体として社会を素晴らしいものにしているのは事実だとしても、大多数の人間にとってそのほとんどが必要なかったことに変わりはないのです。
それは認めなければいけません。
逆にいえば、将来の夢が決まっているなら、そこから逆算して成績を上げるか知識をつけるかなりすればよいでしょう。
例えばあなたがプログラマーになりたいのなら学校の勉強なんてしてる暇はなく、とっととパソコンを買ってPythonでもCでもJavaでもすればいいんです。
勉強役に立つと信じて疑わない先生とかは「そんなことない!英語はプログラマで公式ページを読むときに使うし、社会だって~」とか言いだすんでしょうけど、そんなの嘘、でまかせです。
プログラマーになろうが何になろうが、生活や仕事で使う知識だけしか使わない。
そしてその多くは、学校では習わない。
やりたいのなら、やれ。
こっちのほうが早いし、確実です。やりたいことがあるのなら。
仕事にいる知識は驚くほど少ない
というと今度は「そりゃ全部を役に立ててる人がいるはずなかろう!」という反論がすかさず飛んできます。
じゃあなんでそんなものを学ぶんですか、という話になります。
仕事に使うやつを使う時に学べばいいのに。
学生で無駄なほとんどのことを学ぶ必要はないでしょう。
現にドイツのようなヨーロッパの多くの国では、将来は11歳、遅くとも13歳ぐらいまでには決まってしまいます。日本のように「職人になっても生きる上で最低限の知識は…」とか言って英語や公民や地理をさせるようなことはありません。
むしろあちらでは「腕で生計を立てるなら、その道に進むのは早い方がよい」という考え方です。
大工をしたい子、プログラマーになりたい子、お菓子をつくりたい子…色々いるとは思いますが、これになりたい!と決まっている子にまで、「うるさい!役に立つといったら役に立つんだ!」と強弁して勉強を押し付ける必要はありません。
「それじゃ間に合わないだろ」という反論はおいといて、私は四則演算と文字の読み書きだけあれば十分だと思います。
ましてや、二次方程式や化学反応が普通の事務仕事に必要だとも思えません。
そして現に、社会人の多くは学校で学んだことをほとんど忘れてしまっています。
その人達のための「社会人から学びなおす○○講座」という動画やページがあって人気になるぐらいには、です。
しょせん義務教育で学ぶことなんてそれぐらいのものでいいんです。
適切にググれさえすれば、あとはそこで学習しても全く構わないし、それで回っているのが世の中(私の仕事でもそう)です。
それで「なぜか」問題がないよね、というのが現在の公教育。
役に立つ知識はごくわずか
今度は「うるさい!俺が○○って仕事をしてたときは○○の知識が役に立ったんだ!」って言いだす人もいます。
その○○の知識が役に立ったことは別に構わないとして、ナ行変格の活用って使いました?
地中海性気候の特徴って使いました?
たぶん使ってないと思うんですよ、え、使った?
じゃあ英語のto不定詞の3つの用法は?
家庭科で習った魚のおろし方は?
連体形と終止形の違いは?
つまり「役に立った!」って主張してるのは、たまたま仕事でそれに触れる機会があってそう思ってるだけ、ということ。
そもそも忘れてる知識は忘れてるので「役に立ったかどうか」さえ論じられない(「あの人は今」にさえ出ない芸人こそ、本当に一発屋だった芸人理論と同じ)。
たぶん役に立ってないんでしょう。
12年間もかけて学んできたことのほとんどを使わず、でもそれでOKですよ、というのが現実。
よって学校の勉強は役に立たない、Q.E.D.証明終了
なぜそんなものを学習する必要があるのか(疑問)
だとすると、子どもたちがそれを今学ぶ理由は、あるいは私たちが学んできた理由は何だったんだろうか?
どうせ後から一部を学びなおすというのに、なぜ学ぶのだろうか?
未来が確定して、あるいはしそうになってから学べばいいのに、未確定のうちから学ぶのはなぜなんだろうか?
私は「学校の勉強が役に立ったんだ!!」って信じ込むことより、意味を考えることのほうが大事だと感じます。
無駄であることをいったん認めてしまって、じゃあなぜあの時私たちはあんなに一生懸命やったのか?
その答えは残念ながらちゃんとはわかりませんが、コンピテンシーの涵養、になるんでしょう。
あまりに日本の学生が使えないから…なのか知りませんが、経産省が2006年から「学問で得られる専門知識やスキル以外に、仕事などで必要になる力」を育てる動きを始めました。
「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」の3つを掲げています。これは社会、会社で生きる上で必要である以上に、生涯にわたり養うものでもあります。
その姿勢を身につけることが、公教育の目的だったのだと思います。
これをまあとりあえずコンピテンシーと呼びます。
1つ目は「主体性」「働きかけ力」「実行力」からなる。
2つ目は「課題発見力」「計画力」「創造力」からなる。
3つ目は「発信力」「傾聴力」「柔軟性」「状況把握力」「規律性」「ストレスコントロール力」からなる。
これらの力、コンピテンシーは確かに学校で涵養され得る…と言えなくもないですね。
問題はそれがテストの得点力とは全く等価でないことです。そこらへんの問題とか、現職の先生方はどう思っているのか気になります。誰か教えて(他力本願)
学校といえば教科書、教科書がなぜわかりにくいのか、考察してみました。
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