亀井伸孝氏ツイート、手話の「文化の盗用」

新型コロナウイルス感染防止の飛まつ対策として、大分県別府市教育委員会は給食時の手話の指導を2小学校で始めた。
献立のカレーライスと牛乳とヨーグルトの配膳が終わると、黒板の前に出た代表の児童2人の仕草に合わせて「いただきます」と全員が手話であいさつして食べ始めた。「ごちそうさま」「おいしかった」など1学期中に他の言葉も覚え、コロナの感染状況次第では2学期も続ける。
社会福祉法人「太陽の家」の共同出資会社「オムロン太陽」が同校のため2分間の動画を作成し、教諭と児童はこの特製教材で手話を学ぶ。
市教委は「学校側の指導とはいえ、無言で給食を食べる子供たちの姿は痛ましい。この時間を障害者への理解を深める機会に変えたい」としている。
新型コロナウイルス飛沫防止のために健常者の学校で手話を使った挨拶を子どもたち、先生が行うというニュースらしいですね。

亀井伸孝氏の「文化の盗用」ツイート
この発言についたリプライはやや炎上気味でリツイートのほうが多く、同意は得られないようでした。
今どきのクソメディア風にいえば「批判が殺到」なのでしょうが、どうしても私はこれを批判する気になりません。
文化の盗用というのは漢語表現なので、ここではCultural Appropriationと言ったほうがいいでしょう。
これは一般に「優れた」文化の者が「劣った」文化の者の文化を表層的に模倣し、あるいは商業的に利用し、あるいは美談として消費するときにそれを批判するもの
として使われるのだと、私は感じています。
ここでいう「優れた」「劣った」は当然私の価値観ではありません。
例えば白人-黒人、
晴眼者(目が見える人)-視覚障害者、
健聴者-聾者
のように、「搾取してきた側」と「搾取されてきた側」とか「虐げてきた側」と「虐げられてきた側」のような対立を孕むもの。
本来その両者に差はないはずですが、歴史的に虐被虐の関係性があることで「文化の盗用」が起こりえます。
さて問題は健聴者と聾者の間にそういう関係が成り立っていたのか、です。
健聴者と聾者の関係性はつねに非対称だったし今も非対称である
健聴者と呼ばれ、しかも聾者が周りにいない人達(今の私もですが)が聾者に対してできることがあるとすれば、その歴史を学ぶことでしょう。
- それが健聴者の間でどのように受け止められてきたかご存じですか?
- 手話のことを「ジェスチャーか何かだろう」と思っていませんか?
- 自分たちがしてきた差別について、意識的ですか?
おそらく、周りに聾者がいない人達の理解なんてそんなもんだし、そうなってしまうのが人間なのでしょう。
健聴者のために設計されたこの世界で健聴者として生き続ける限り、真の理解なんて夢のまた夢。
例えば私は両性愛者ですが、
異性愛の皆さんは、普段の生活で両性愛がどれぐらい辛い思いをしているか、
自分の無神経な言動がどれだけ傷つけているかを自覚していますか?
まず申し添えておくとすれば、もともとそんなことは無理です。
人間は自分の目線に立ってしか物事を考えられません。
自分が感じるようにしか世界は感じられないのです。
でも、だからこそ、ときに差別される側の心情を知ろうとしたり、彼らの辿ってきた歴史について学ぼうとしたりする必要があるのだと思います。
決して手話は痛ましいものでもないし、利用価値では決まらない
手話という言語とともに生きる人たちの尊厳と権利を顧みることなく、表層的な利便性だけをかすめ取っていく事例が、今日もまた…という思いがしました
表層的な利便性だけをかすめ取っていく。
機能性、利便性だけにフォーカスするグロテスクな「健聴者」による手話の一方的な利用。
そこに聾者への敬意はなく、ただただ「役に立つから」という理由だけで手話が使い捨てられる。
無言で給食を食べる子供たちの姿は痛ましい。この時間を障害者への理解を深める機会に変えたい
痛ましい、ね。痛ましいって。
亀井氏は「聾者はそんな存在ではない、馬鹿にするな!」という思いを抱いているのでしょう。
私は身近な人間に聾者がいるわけではありません(亀井氏のパートナーは聾者です)。
でも、文脈からそういった強い気持ちを感じ取れました。
きっと、「また文化の盗用論か!くだらん!」と一方的に蔑んでいる人には一生わからないでしょう。
論理で考える必要もありません。子どもでもわかります。
これは怒り、悲しみからくる正義の主張なのです。あとはそれに共感するかどうかだけ。
共感できなければ「そう考える人もいるのね」ぐらいで立ち去っていいと思いますが、私が問題にしてるのは「何がおかしいかわからない、手話を使えるのは便利なんだからいいじゃん」と考える人達のことです。
そういう実用主義者こそ実は最も有害で、そのうち彼ら自身の論理を拡大して私のような性的少数者、性的不能者まで攻撃してくることがわかりきっています。だから私も危機感を抱いているのです。
「手話は便利だから存在価値がある」は「聾者は健常者に比べて存在価値がないので消し去って構わない」とか「LGBTは生産性がないので消し去って構わない」とまったく地続きです。
普段手話を使って生活している人のことを気に留めようともせず、表層的にツールだけを便利に使っておいて「喋れない子どもの姿は痛ましい」?
だとすると手話を使って挨拶をする子どもを見ると感動でもするのだろうか?(実際、リプライ欄には感動してる人もいますが)
そういった書き方こそが、亀井氏が最も唾棄すべきだと考えているものなのです。
聞こえる人たちが感動している、そのずれ方が絶望的に辛い
聾者はこのニュースに感動など求めていないということです。生活に必要なツールを使っただけで感動されても困るでしょう。
私の知人に、ガンで声帯を取って発声できなくなった人がいます。今は人工発声器(人口咽頭)を使って生活していますが、やはり限界があります。奇異の目にも晒されます。
みんながちょっとずつ知ってくれていたら、こんな目に遭わなくて済むのに。
その人は「24時間テレビ」を例に出して「感動とかどうでもいいから、少しでも私のこの状態を知らしめてほしい」と口にしていました。人口咽頭で声を出すだけで感動されても困る、と言いそうです。
考えられる反論
Q.英語など、普通の言語とは何が違うのか?
A.英語は自然言語であり、意思疎通のために誰かが作ったものではないし、差別の歴史はない。
Q.言語の価値は利用価値にしかないだろう。
A.実用主義者が見るとそうなる。私は言語それ自体に価値があり、利用価値とは切り離されるべきだと考えている。
Q.崇高な目的がないと話題に触れてはいけないのか。
A.曲解。利用価値だけではなく日本手話を使う人々に思いをはせ、学んでほしい。
Q.文化の盗用とは違うだろう。
A.「文化の盗用」という論は射程が広く、これを言うだけで他人を都合よく攻撃できるのも事実。文化人類学をおさめる人間(亀井氏)が使うのは不適切。
Q.なんで怒ってるのかわからないのはおかしいってこと?
A.おかしくない。でも「怒ってるんだ」ってことを知っててほしい。
「何が言いたいのかわからんけどこの人は怒ってる」って感じた人は、亀井氏を「論破」しにかかる人よりよっぽど文脈が読めてると思う。
異なる文化の人を糾弾するとこうなる、という実例をおいておきます。
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