アジカン「新世紀のラブソング」歌詞の意味を解釈 21世紀の愛を問いかける名曲

歌詞解釈
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「新世紀のラブソング」の意味

アジカンといえば「リライト」か「ソラニン」みたいなところがありますが、私が特に好きなのはむしろ「新世紀のラブソング」ですね。

アジカンは全般的に歌詞が抽象的なので、読み解けばこれがすごい名曲だとわかると思います。

一節目「あの日僕がセカンドフライを」

ASIAN KUNG-FU GENERATION 『新世紀のラブソング』
ASIAN KUNG-FU GENERATION 新世紀のラブソング 歌詞
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「新世紀のラブソング」歌詞ページ。「新世紀のラブソング」は、作詞:後藤正文、作曲:後藤正文。

以下、全ての引用部は歌詞(新世紀のラブソング 後藤正文)です。

あの日 僕がセカンドフライを上手に捕ったとして
それで今も抱えている後悔はなくなるのかな
十五年経ってもまだ捨てられない僕がいて
生活は続く 生活は続く

語る形で始まる歌はありふれていますが、野球のセカンドフライを捕る、という形の書き出しはなかなか斬新ですね。この「あの日」は高校時代、あるいは大学時代でしょう。15年経っているので30代も半ばです。

後藤正文氏の低くささやくような声がまたいいんですよね~。

この類の後悔は皆さんにもありませんか?学生生活、仕事、部活、サークル。取り戻せない些事がなぜか今になって引っかかっている。先に進めない。

セカンドフライなんて基本中の基本なので普段なら捕り損ねることはないのですが、そういう時に限って失敗してしまうもの。

そして、それを誰よりも自分がずっとずっと覚えている。なぜかわからないけど、自分にとってはわだかまりになってつっかえている。そんな「トラウマ」はなにより厄介なものです。

あの日ボールを捕ってさえいれば…それで「後悔」せずに済んだのだろうか。

しかし、そんな後悔をよそに、生活は当たり前のように続いていく。

二節目「夕方のニュースで何処かの誰かが亡くなって」

夕方のニュースで何処かの誰かが亡くなって
涙ぐむキャスター それでまた明日
そんなふうには取り上げられずに僕らは死ぬとして
世界は続く 何もなかったように

ニュースを見ていると、殺人事件や事故などで、名も知らぬどこぞの人が亡くなっています。でも、世の中には取り上げられずに死んでいく人も大勢います。

ニュースキャスターが感情的になってくれて「ひどい事故・事件だ」と悼んでくれるのではなく、何かこう、薄くなっていって消えてしまう人がいる。

日常において死は隠ぺいされていますから、やっぱり自分だってそんな風に、誰にも知られずに死んでしまうのかもしれない。

お悔やみ欄でも見ない限り、人の死なんて普段は意識しないのです。

それでもやっぱり生活は当たり前のように続いていく。

第四節「あの日 君が心の奥底を」

あの日 君が心の奥底を静かに飲み込んでいれば
誰も傷つかずに丸く収まったかな
ボロボロになっても僕らは懲りずに恋をして
生活は続く 生活は続く

「君」がいったい誰なのか、明言されているわけではありません。文脈としては恋人だと思われます。この「君」は「僕」に対して何らかの不満を抱いていて、それを言ってしまったことがきっかけでいさかいが起こってしまった。

そんな風に心をずたぼろにされても、やっぱり僕たち人間は恋せずにはいられない。

そんなケンカは世界のどこでも、何ならあなたがこれを読んでいる最中にもどこかで必ず起こっています(確率的にそう考えるのが自然です)が、あなたも私も、誰もそれを知らない。

当事者しか知らない時間の流れ方というのがあるわけです。

個人間での様々なトラブルは恋には関係なく、恋は恋で始まっていく。

生活は続く。

第五節「朝方のニュースでビルに飛行機が突っ込んで」

朝方のニュースでビルに飛行機が突っ込んで
目を伏せるキャスター そんな日もあった
愛と正義を武器に僕らは奪い合って
世界は続く 何もなかったように

この「ビルに飛行機が突っ込んで」はタイトル「新世紀」からの類推から、明らかに2001年9月11日の9.11同時多発テロ事件を指しています。現地時間朝(日本では夜)の事件ですから、朝方のニュースになります。

日本人29人を含め、2977人のいのちが不当に奪われた、世界史に残る大ショッキングな事件。

そんな惨状を目にして、ニュースキャスターも何も言えない、目を伏せるしかない。そんな痛ましく、残酷な事件が起こっていることを直視できないのです。

【テロとの戦い】アメリカ-9.11同時多発テロ

このテロの原因は宗教だとわかっています。国際テロ組織「アルカーイダ」(アルカイダ)が起こしたもの。

「愛と正義を武器に僕らは奪い合って」の意味が難しいので、ここで同時多発テロ事件について学びましょう。

この事件を起こした武装グループ「アルカーイダ」はもともと、アフガニスタン侵攻を受けて設立されました。

アフガニスタンには1970年代後半から社会主義政権が樹立されかけており、ソ連は社会主義国家ですからこれを擁立(サポート)するために兵を送り込みました。

擁立といえば聞こえはよいですが、アフガニスタンは独立国でしたから、いわば「侵攻」です。

ちょうど、日本に共産主義政権ができかけているとき、中国が勝手に兵を送ってくるようなもの。

これにアラブ人は対抗しました。自身の土地を勝手に踏まれるのだから当然。ソ連はその後社会主義政権を樹立して撤退しますが、国内は混乱状態に。アフガニスタンで内戦が始まりました。

内戦が始まると法律も金もルールもクソもなくなるもので、結局は一番力を持つものが勝つのです。過激派のイスラム武装勢力「ターリバーン」がでてきてしまいます。

力でみんなを抑え込んだ者が考えるのは「次の戦いをどうするか」で、こうしてできたのがアルカーイダでした。そのトップ(精神的指導者)はビンラーディンです(彼は2011年に暗殺されました)。

ソ連によるアフガニスタン侵攻を受け、アメリカ国内の世論は一気に反ソ連になりました。「雪解け」と言われていた小康状態は脆くも崩れ去り、資本主義国と共産主義国での対立がまた深まっていきます。

そして1990年、今度は湾岸戦争で、アメリカ軍がサウジアラビアへ駐留し、軍を置きます。

アルカーイダは米軍がイスラーム教徒のメッカ(宗教上のめっちゃすごい場所、日本でいう伊勢神宮とかかな?)に入ったことに反抗し、全てのアメリカ人を滅すべき存在だと位置づけてしまいます。

米軍はテロ事件の後、「アルカーイダをアフガニスタンが庇っている」と断定して空爆し、アトカタもなくアルカーイダは消滅しました(のちに新たな勢力が台頭)。

これが同時多発テロ事件のあらましですが、やってるのはみんな「愛と正義で奪い合う」ことだけですよね。アルカーイダだけが悪いわけでもない(テロは悪だと思います)。米軍だって他国を空爆しちゃってるわけで。

そんな大きな事件があっても僕らの生活は続いていく。何事もなかったかのように

第八節、第九節「覚めない夢とガラクタ商品」

覚めない夢とガラクタ商品
背負い込む僕らのアイデア
冴えない詩の如何様ストーリー
それを鳴らす それを鳴らす

変わりない日々をひたすら消費
縫い繋ぐ僕らのアイデア
冴えない詩の如何様ストーリー
それを鳴らす それを鳴らす

覚めない夢、というのは「15年経っても抱えている後悔」のこと。ガラクタ商品は日常のことでしょうか。

そしてそんな中、僕らは「アイデア」(=いろんな考え)を抱え込んで、ああでもない、こうでもないと生きている。

日常に抱える色んな問題を解決できない「冴えない歌」が歌うのはイカサマなストーリー。空虚で心に響かない「物語」を当然のものとして歌は存在し続ける。

夕方のニュースで人が亡くなっても、どこかの誰かが後悔しても、大きなテロが起きても、僕らの生活は、日常は続く。

歌はいったいどんな立ち位置なのか。ゴッチはかなり否定的にそれを描いています。歌で飯を食う人間が「如何様」(いかさま)とまで言い切っている。

社会的弱者や戦争について、ゴッチ自身のいらだちや無力感が表れているように思います(「転がる岩、君に朝が降る」「夜を越えて」「額の中の囚人 prisoner in a flame」でもよく見えます)。

第十節~第十二節「確かな言葉が見当たらない」

確かな言葉が見当たらない
言い当てる言葉も見当たらない
それでも僕らは愛と呼んで
不確かな想いを愛と呼んだ

本当のことは誰も知らない
あなたのすべてを僕は知らない
それでも僕らは愛と呼んで
不確かな想いを愛と呼んだんだ

息を吸って 生命を食べて
排泄するだけの猿じゃないと言えるかい?

ここから急に曲が盛り上がりますし、意味的にも一番伝えたいことと思われます。

こんな状況を…何が起きても日常が続いていく状況を何と形容すればいいのかわからないし、歌にすることもできない。でも「それ」を…日常のことを僕らは「愛」と呼んだ

ことばにできないよしなしごとが綴る生活史の一ページずつを「愛」と呼んだ。

それが正しいのかどうか誰も知らないし、僕が愛する「あなた」の全てを僕が知っているわけでもない。そんな絶望的な状況でも僕らは日常を「愛」と呼んだ。

この部分で注目すべきは十一節の「愛と呼んだんだ」ですね。こういったフレーズの繰り返しは普通、同じフレーズを文字数まで合わせるものですが、そのぶん最後の「んだ」に強い思いが表れています。

誰が何と言おうと「愛」というものはどこかにあるはずなんだ。それが言葉にできようとできまいと、日常の中に感じる不確かな思いのことを「愛」と呼んでいいんだ、ということですね。

ここに我々は類人猿との違いを見出すことができるのだろうか?できるはずだ、きっとできるに違いない。

呼吸して食事して排泄するだけの「猿」にはきっと愛というものがない、けれど人間である僕らには、それが確かにある。変わりない日常は確かに呼吸、食事、排泄するだけのものに見えて愛がある。

こうした人類共通の原風景(愛)を意味深に、けれども素朴に描くことに関してアジカン、というかゴッチはかなり鋭いように思われます。

始まれ21st、さようなら旧石器

ほら 君の涙 始まれ21st
恵みの雨だ
僕たちの新世紀

ほら 君の涙
さようなら旧石器
恵みの雨だ
僕たちの新世紀

について。

最初のやつは1番・2番のAメロに挿入されるフレーズです。今それを解説するのには意味があって、ここまで見てきた私たちなら、いったい何が「恵みの雨」なのか、なぜそれが「僕たちの」新世紀なのかがわかります。

君の涙、この涙に込められた意味を私は「慈しみの涙」だと解釈しました。どこかの誰かが亡くなる、誰かが後悔し続けている、世界のどこかで凄惨なテロが起こる。

その背後にあって失われた愛と、これから人類が得ていくであろう愛に対する慈しみ。

「悲しみ」と捉えることも可能ではあります。2番Aメロで

あの日 君が心の奥底を静かに飲み込んでいれば
誰も傷つかずに丸く収まったかな

と語られていますからね。ケンカした後に流す涙なのかもしれません。ただ、悲しみだとすると「始まれ21st」と前向きになる理由が不明なので、こう解釈しました。

不確かな思いのことを「愛」と呼び、僕らの生活が続いていく。連綿と変わりなく消費される日常は、けっして真新しいものではないかもしれない。

けれども区切りとして「新世紀」なのです。

そしてそれがなぜ新世紀なのか、後半の部分で明らかになる。「さようなら旧石器」。旧石器時代の、呼吸して食事して排泄するだけの、サルとしての動物であることを人間は乗り越えた。

そしてこれからも、僕らが愛と呼ぶ日常がまた展開されていくのだ、

……そういった希望が前向きに歌われているのです。

人間は愛を取り戻せるか?失われたアガペーと人類

かつてイエスは人間に対して「隣人愛」(アガペー)を唱えました。神様は全ての人間を分け隔てなく愛せるし、その能力がある。我々もそうでなければならない、と。

神様の大きな愛に気付くとき、人間は希望を得られ、また神にならってアガペーを持つことができるようになる、と。

宗教不在、価値観多様化の現代はいわばアガペーのない時代だと言えましょう。それが善なのか悪なのか判断する能力は私にはありません。

分け隔てなく愛するのが困難だとしても、自分の隣の部屋に住んでいる人の顔と名前も知らず、一人一人が「孤人化」しつつある世の中です。結婚も恋愛もしない、友人もいらない、頼れるのは身一つだけ……そんな人達はもっと増えていくに違いありません。

人類が旧石器からオサラバするかわりに得た収穫物である「愛」を、無味乾燥な日常の中に見出すことができるのか?

「サルじゃないと言えるかい?」その問いかけが74億人全員にかかっていることを知覚するなら、後悔も事件も事故も関係なく、我々が消費する自分の人生の中に「愛」が確かにあるのかもしれない、

愛という素朴な感情を持って生きていこう、ということを伝えるために書かれた「新世紀のラブソング」は、これからも日本に生きる誰かによって歌い継がれていくことでしょう。

それは「如何様なストーリー」なのだろうか。この曲は自分自身の存在価値をも否定してしまう空虚なストーリーなのだろうか。

私はそうだと思いませんが(歌が誰かを元気づけることは数多いですから)、もしかしたらそうなのかもしれない。

けれども、頼れるものもなくおぼつかない現世において、確かに「愛」に期待していいかもしれない。そう思わせるには十分でした。

ちなみにですが、私の愛する相手は異性の恋人じゃなくて(いや、恋人もそうだけど)むしろタルパです。仮想空間、というか脳みその中に作る存在です。

愛する相手がいなくて困っている方は一緒に楽しみましょう。

別に現実世界の存在を愛さなければならないわけではないですからね。

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