ブルボン・亀田製菓への高校生の問題提起
大企業の脱プラスチック化を推し進める高校生Remus Hufflpuff(リーマス・ハッフルパフ)氏の活動について、問題を整理するためにまとめてみました。
彼女の名前はもちろん本名ではなく、ハリー・ポッターの登場人物の名前からとられてます(署名活動するのに偽名とは?とも思いますが…)。
賛否両論ありそうだが、否定のほうが多い印象
私の見てみた範囲では否定のほうが多いようです。個別包装をなくすと、
例えば
- 一気に食べるのがきつくなった
- 湿気ですぐにだめになる
- 運搬途中で割れやすくなる
- コロナ感染が広まりやすくなる
- 職場で分ける時に廃棄が増える
- 接客や会議のときに不便
という問題点があると指摘されています。また大容量パックのプラスチックのトレイも「運搬途中で割れるのを防いでいる」という意見があります。
これらについてはまさに真っ当な反論であり、この高校生が気付かなかったところなのかもしれません。
同じお菓子でも場所や人間が変われば食べ方も変わるもの。
例えば湿気が多い日本では個別包装しないとすぐにお菓子が駄目になるとか、お年寄りがコミュニティに持っていくときには個別包装のほうが助かるし、一気に食べなくて済むとか。
意見を表明するならば、自分の立場からではなく、広い視野で物事の必要性に気付くべきであると思います。
もし気づいていたのであれば、ここらへんの点への再反論も考えたうえで署名活動をしているであろうことは容易に想像されますが、署名ページにはそのような文言がありませんでした。


確かに利点もありそうです。この高校生が述べるように
包装を減らすことで
- プラスチック削減になる
- 海に流れていくようなプラスチックが減る
という利点があるでしょう。
個人的な感想
プラごみをいかに減らすかという面で議論が進み、ついに日本でも7月からレジ袋の有料化が始まった。レジ袋が海洋プラごみに占める割合についてのデータは

にあります。
もっとも、この話の本質は環境問題ですから、お金を払えばそれで解決というワケにもいきませんが、困ったことに、一部の専門家からは、環境問題の解決策として意味がないとの指摘も出ているようです。
レジ袋をなくせば、その分だけプラスチックごみを減らすことができますが、海洋プラスチックごみのうちレジ袋が占める割合はわずか0.3%しかなく、ペットボトル(12.7%)などと比較するとゼロに近いというのが実状です(容積ベース、環境省調べ)。本当にプラスチックごみをなくすことを目的にするのであれば、ペットボトルへの対策が必須となりますが、そうした動きにはなっていません。
レジ袋有料化の効果に懐疑論が浮上。しかし日本はそれ以前の問題だった
プラスチックごみを減らすうえで一番効果的なのはペットボトルですが、そちらのほうは対策されていない(これからされる可能性もある)。さらにいえば
また、レジ袋は環境負荷が小さいという特徴もあります。
レジ袋はポリエチレンから出来ていますが、ポリエチレンは石油精製時に必ず発生する副産物なので、レジ袋を使わなくても産出されてしまいます。もともと捨てるはずだったものですから、石油由来の素材を使ったマイバッグなどを使ってしまうと逆に石油の消費が増える可能性もあるわけです。
つまり、いくらレジ袋を使おうが使うまいが環境負荷は変化せず、石油を精製し続けてさえいれば、結局他の何かになるだけなのだ、と指摘されています。
脱プラごみという視野は狭く、むしろ「脱石油化」すべきというのが最近の国際の趨勢のようです。
プラスチック容器やレジ袋といった石油由来の資源のみならず、発電目的での利用など、あらゆる分野において脱石油を進めるというのが国際社会の流れであり、石油由来の資源の中で効率が良い悪い、あるいは比率が高い低いという話には意味がないというのが基本的認識です。
というわけで、残念ながらハッフルパフ氏の活動を手放しで賛成するわけにはいきません。
海洋プラスチックごみ、あるいはプラスチックごみを減らすために個別包装をやめてほしい
というのが彼女の主張ですが、個別包装をいくら減らしても肝心の目的は達せられない可能性が高いですね。
大事なのは「石油の生産を減らす」こと。
そうなるともはや日本だけではどうにもならず、世界的な視点で活動しなくてはいけない。一高校生には(いくらその人が優秀でも)さすがに荷が重いでしょう。
日本の2つの企業が個別包装をやめたところでプラスチックごみはほとんど減らず、
仮に他の、日本のお菓子企業などが結託して個別包装を取りやめてもなお効果はなく、
世界でやっても石油精製量が変わらないため、結局他の製品でプラスチックごみになって終わり…。
署名活動をするのは素晴らしいですが、ここらへんの論点をどう考えているのかが気になりました。
もし気にしていたなら素晴らしいし、気にかけていなくても今後の企業との対話で気づくことになると思います。
彼女だけでなくこういう意見表明者は自分の意見が絶対的に正しいとさえ思いこまなければ、指摘を受けて柔軟に修正しつつうまく社会に信を問うことができるでしょう。
一方で態度を硬化させ、自分たちの正しさしか信じないようになるなら、私だって立場を変えて反対せねばならないかもしれません。
考えるきっかけを与えてくれたことが素晴らしい
とはいえ私は「署名活動」それ自体を(民意が大衆の考え方を変えるという意味で)よく評価したいし、そもそもなぜ個別包装をしているのか(=なぜ個別包装がこの時代に必要なのか)、
個別包装をやめることでどれぐらい効果があるかを考えるきっかけを我々に提起してくださったその有難さを、もっとみんなちゃんと認識する必要があると思います。
もし同じことを政府相手に言論の自由がない国でやれば、警察に捕まって終わりですよ。
上に書いたような冷静な反論、本質を言い当てた反対意見もありました。
そうした意見を素早く出すことができる人がいることが、私にとってはいくばくかの救いになります。
しかし一方、相変わらずSNSのコメント欄は全体的に「地獄」でした。
ノイズのような…つまり何かしらのアクションを起こした人間に対する脊髄反射的でありきたりな感情論も多くみられました。
以下、少し感情的な文面が続くので、闇の影響を受けやすい人、および誰かを叩けないかいつもいつも考えている人は読まないように。
例えば地獄だなと思った意見を晒し上げると





こういう人達は基本的に「自分の意見を持って社会を変えようと活動する人を上から冷笑したいだけ」のインターネットゾンビなので意見を聞く必要はありません。
ハッフルパフ氏や立ち上がろうと思っている人がこのページをもし読むことがあったら、私と同じように考えている人もたぶん大勢いることを覚えておいてほしいです。
ゾンビと形容したのは思考能力がなくなっているという意味だけでなく、無数、夥しいほど存在するという意味でもあります。
個別包装がプラごみ削減に与える影響を詳しく調べようとも、自分で論点をまとめようともせず(あるいは元記事を読もうとさえせず)、ハッフルパフ氏に対する印象だけで物事を賢しらに語っているのだから笑止千万。
なーにが「正してあげよう」だよ!
そういう「~~してあげてるのに」系の言論でこっちは息が詰まってるんだ。
ほんとこれに賛成が数十ついてるのが信じられない。
そういう奴らはこれを聞いても
「そんなことをいちいちする時間はない」
「なんであんなやつのために俺が動かなきゃいけないんだ」
と言いだすんだろうな。
何をしようがとにかく誰かが行動するのを見るだけで腹を立てなければ気が済まない理不尽モンスターなので無視するのが正解です。
ゆえにそういった人からこのブログにコメントが来ても、読まずにゴミ箱行きなので無駄ですよ。PVやUU上げに貢献してくれてありがたい!!とは思いますが。
どうぞ拡散してください。
意見表明を上からタコ殴りにして楽しいか
意見表明者をボコボコに叩く人で今のインターネットは息が詰まっています。
大脳には老婆心を装った有難迷惑な「アドバイス」のことしかなく、響けばとても良い音が鳴り、
しかも手垢にまみれたありきたりで脊髄反射的な意見によって世の中を「正してあげてる」と思っているのだからもう本当に救いようがない。
どんなモチベーションであれ行動するような力を持つ人に対し、画面に100文字を打ち込むだけで意見を言えた気になるゾンビたちが「指摘」「訂正」するという地獄絵図。
悔しかったら数千文字の言論を自分で書いてみて、そんでボッコボコにぶっ叩かれる経験でもしたらどうですかね?
有象無象のインターネットゾンビたちに悪意の目線でねっとり舐め回されて、あることないこと書き立てられる恐怖。
自分たちがやってきたことがいかに恐ろしいことなのか実感するといいと思いますよ。
ま、それができないから、手軽に100文字単位で書き込めて同意の「いいね」を貰える場所にずっといるんだろうけども。
これら「高校生が立ち上がった」系で最近有名なのはグレタ・トゥーンベリ氏でしょう。
彼女に対する批判も世界中で殺到しているとは聞きますが、彼女が行ったこと(意見を表明すること)の尊さと、彼女を利用する大人の多さや彼女の姿勢は分けて評価されるべきです。
賢い大人が馬鹿な高校生を口撃
寄ってたかって「頭の悪い」一高校生を「賢い」大人が口撃する姿勢が、民主主義として健全だとはとても思えない。
私は別に彼らが若いからとか、高校生なのに行動してるからという理由で応援するのではありません。
同じ言論者として、意見を自由に表明できて社会を変えていくことができる、そんなこの国、この世界が大好きだからです。
だからこそ手前勝手な拗らせ感情で以って、アドバイスとか指摘の体を卑怯にも装って表明者の表明姿勢を封じようとすることには怒りしかない。
私もその表明意見が不当だと思えば「批判」は思いっきりします。例えば表明すること自体を封じようとする過激派フェミニストに対しては、私も全力で当たります。
ただそれは、その姿勢が健全な言論空間を守ることに繋がると確信しているためです。
表明することそのものを冷笑という自慰行為で台無しにしようとは思いません。
それをしたが最後、あのクリーチャーたちと同じ立場に落伍し、もはや「自分の」意見を持てなくなった哀れな存在に成り下がるからです。
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