「正義の反対はもう1つの正義」と言い続け、相対主義に伍すると何者にもなれない

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思考停止の相対主義に騙されるな

あなたがもし日常で、ネットで「正義の反対にあるのはもう一つの正義なんだ」という言論を聞いたなら、真っ先にまず口に指を突っ込んで、唾を眉につけてください。

それは聞く価値のない「相対主義」かもしれません。

今「かもしれません」と述べたことに注目してほしいのです。その理由は後で話しますから、とりあえず読み進めてもらいたいです。

誤った相対主義の陥穽

私は常々このブログで「長文を読まないが意見は言わないと気が済まない人が言論を手に取るとロクなことにならない」と伝えてきました。

その一つの原因がこれなんですよ。

そういう人がひとたび伝家の宝刀とでもいうべき考え方を手にすると、もう壊れたテープのようにそれしか繰り返さない。言論なんてできっこないわけです。

その伝家の宝刀の一つが相対主義です。

相対主義をここでは「正しいとされる原理(真理)は、共同体、あるいは個人間で異なっているという考え」と定義しておきます。

ここで大事なのは、相対主義は決して「真理なんてわかりっこない」と述べているのではなく、ましてや「真理どうしが争うと醜いことになる」なんて、もう全く言っていません。

そこをはき違えている人がいるように思います。

難解に衒学的に言えば「相対主義と懐疑主義(虚無主義)は似て非なるものですよ」ということであり、簡単にいえば「相対主義は原理がないことを主張してはいない」ということです。

だから、自分のニヒリズムを主張したいがために

「ほら見ろ!正義が暴走するとこういうことになるんだ、だから正義は駄目なんだ!」

「正義と正義が争っている、あぁ醜いなぁ~!」

「こういう例を見ると、真理なんてものはこの世にないんだなと実感するよ」

と言うのは本当に不毛なんです。

それは相対主義じゃなくてただの虚無主義、懐疑主義

相対主義ってそんな生易しい思想じゃないですからね。

もっと攻撃的というか過激なんですよ。世の中への諧謔を思想ぽく語ってるわけじゃないです。

「原理は人によって異なることがある」。つまり何を信じて生きているか、個人個人で違うわけです。いいですか、そんな攻撃的な思想、ないですからね

学校で「約束破っちゃダメ!」って習うじゃないですか。

「悪いことをしたら謝罪しろ」って小さいころに教わりますよね。

これ全部否定できますか?

それらが共通してない人、あるいは共同体がある、なんて言えます?

私は無理ですよ。そんなの自明すぎて。自明すぎるがゆえに、そんな常識を共有できない人間がいることを理解できない

それみんなが共有できてなかったらとっくに人類滅びてますよ。

もちろん「結果的に約束を破ってしまった」「謝ろうと思っていたけどプライドが邪魔して謝れなかった」という人はいます。それはいいです。

でも「約束を破ろうと思ってわざと破った。罪の意識はない」とか「自分が悪いことはわかっていたけど、謝るという意志は全くなかった」なんて人、いますかね?

いるなら手をあげてください。中二病患者は手を下ろしてください。

それぐらい自明であろうことを前にしても「原理は人によって異なるんだ!」って言えますか?

言えるというなら、それは相当に議論を重ねていく必要があるでしょう。

実践的三段論法を生み出したアリストテレス並みにあなたが聡明なら、相対主義をうまく使いこなせると思います。私にはとても無理です。

相対主義は勘違いされ続けています。

  • 自分の論の正しさを強要するために相対主義を使う
  • 何が正しいか考えるのが面倒なので相対主義を使う
  • 全ての言論が正しいと主張するために相対主義を使う

これらは全部、悪質極まりない用法です。もし見かけたら気づかないふりをして、そっと相手をブロックしてください。ロクな奴じゃないですから。

自分にどうしても譲れない部分があるか、否か

自分の中の「原理」、倫理的な規範になっているものを考えてみましょう。

難しい疑問ですね。

例えば「約束を破られると怒る」人は多いと思います。

というか、全員だと私は思ってます。

そしてそう思ったなら、自分の中の規範は「約束は守るべきである」です。

もしそれを穢されたとして、それでもなお「相対主義なのでしょうがないね」「そういう人がいるのも相対主義的には正しいよね」と、せせら笑っていられますか?

無理です。私は怒ります。「約束破るなよ!」って。

私もある程度の相対主義者ですが、そこまで達観できません。

ネットで言論ごっこをしている人達がしているのはそういうことなんです。

あるものとまた別のあるものが対立している。

どうもよくわからない。考えるのも面倒だ。だからとりあえず「(よくわからんけど)相対主義によれば絶対的真理はないので、議論、終了!俺の勝ち!w」

「自分が本当に譲れないもの」にそれを適用できますか?自分がどうしても守り抜かなければならない正義について、相対主義とやらを適用できますか?

自分の人権を脅かしてくる存在も、その相対主義とやらで守りますか?

それができないのなら、生半可な気持ちで「真理なんてないんだ」と口にしないことです。

正義を標榜して何者かに、なろう!(提案)

もう少し具体的なところにいきましょう。

「男女の権利が平等じゃないとき怒る」「少数派が迫害されているとき怒る」…これらは全て、正常な規範の働きでしょう。

正常というのは「論理的に正しい」という意味です。

例えば原理として「人間は人間として生きるべきだ」があります。

「LGBTは人間であるが、人間らしい扱いを受けられていない」「よって、LGBTが人間的な扱いを受けられるよう、人間として生きる権利が認められなければならない」。

なーにも間違ってないと思うんですよ(あまりにやり方が過激な人、自分も他人を差別していることに気付かない人はいますが…)。

あっ「人間らしい扱いを受けられてない」の定義が厄介なんですが、例えば「自分のパートナーが病に倒れても、病室で看取ることさえできない」「遺産相続が出来ない」これらって「人間らしい扱いではない」と思いませんか?

多数派は可能なのにLGBTはできない。なら制度がおかしいんだ、制度を変えよう!私には正当に思えますが…。

ところが、人々が権利を手にしようと言論という武器を手に取ったとき、それを嘲笑し、侮蔑し、唾を吐いて見下す人達がいっぱいいます。

私は性的マイノリティの一人なので、一緒くたになって唾を吐かれることは非常に不愉快です。

相対主義もどきと議論ごっこ

「どうして権利を求める奴らはすぐに暴走するんだ?」

「そうやって原理を押し付けるなよ気持ち悪い」

「この世に絶対的な真理なんてないんだから、そうやってカッカするなよ」

なるほど~。なら自分が無実の罪で逮捕されたときにもそうやって言ってりゃいいんじゃないですかね。

警察が暴力を行使して自分を逮捕するのも相対主義的に正しいので、自分のことをどうぞ裁いて死刑にでもしてくださいって。

人間らしい権利が認められないってのはそういうことなんですよ。言えますか、言えないですよねキレますよね。

ならもう愚かな相対主義もどきを掲げるのはやめましょうよ。

そんな人たちがやってるのは議論ごっこですよ。相手を論破した気になってるだけですよ。相手の譲れない部分にズカズカと論理で踏み込んで、心を荒らしてるだけですよ。

正義はそもそも「感情」が溢れるべき

ネットの言論空間には、この国を覆いつくさんばかりの冷笑者、ニヒリストがいます。

もちろんそういう人達が日本の多数派であるとは思いません。いつだって過激な主張をする者は悪目立ちするからです。目立ってるだけです。

ただ、そういう人達に影響を受けて、自分が手放してはいけない正義を安易に手放さないでください。相対主義もどきのニヒリズムに傾倒しないでください。

そこに愛はありません。同一性はありません。

呻き声、鳴き声と同じ、あるいはゴーストのラップ音のような、正しくはないけど間違ってもないノイズになって、その他周囲のゴーストと一体化していくだけです。

ニヒリズムの先に待つのはアイデンティティの崩壊です。

この世は不当で差別にまみれている、理解されていない、そう感じたとき、誰にでも言論を手に取る権利がある、と思います。

それを嘲笑して何になりますか?自分が常に多数派で他人を見下せるとでも思っているのなら、それほど頭がお花畑なこともありませんよ。

「面倒だ」という理由だけで、他人を「論破」するために掲げてきた相対主義は、もはや味方ではなくなります。

迫害されたとき、持ち手を離れて全力でこちらに向かうグングニールの槍と化します。喉仏を的確に突き刺してきます。致命傷を与えます。

そういうことがわかってないからこそ「人を殺すのって何が悪いのか感情論抜きで説明できる?」なんて不愉快極まりないスレッドが5ちゃんに立つわけです。

説明できるはずないだろ、そもそもそれを悪いことだと思うのが人間なんだから。

正義は暴力だなんて言いますが、正義なき暴力なんてのは理性ではありません、ただの暴力です。グロテスクな形をした濁って淀んで壊れた、正義のような何かです。

感情によって理性的に他人を説得することが言論なら、私は言論に絶対の価値を見出します。それを「正義の暴走だ」というなら、もう何も言えることはないです。

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