数学や物理の教科書はわかりにくすぎる
中学、高校、大学で少なからず数学や物理を学んだことがある人間なら、それらの教科書のわかりにくさについて異論を挟まないかとは思います。ちなみにWikipediaもわかりにくいです。
もし本気であれを「わかりやすい」と思っている方がおられれば、たぶんそれは天才なのか、教科書的な記述と思考回路とが一致した稀有な才をお持ちなのか、
というところです。皮肉じゃなくて。
今日話題にしたいのは、数学や物理の教科書がわかりづらい理由です。

学校の授業で扱われるものは例外なく、長々とした説明、難解な数式、足りない注釈などで学生の心を惑わせ、睡眠へと誘っていました。
現代に生きる堅牢なローレライですね。
まあ「教科書とはそんなもんだろ!いい加減にしろ!」と反論されればこちらも何も言えませんが…ちょっと考えてみませんか?
教科書は「正しい」ことしか書けない
大学院で用いる教科書はこの例に当たらないことがあります。
最先端分野に関する知見がまとまっているため、未だに解釈が分かれているものを2つ取り上げていたりします。法律とかもそうかな。
ですがそれ以前のものについては、基本的に教科書には「正しい」ことしか書かれていません。
正しいに鍵かっこをつけたのは、私が少なからずそれに反感を抱いているからです。
例えば日本史や世界史の教科書を読んでみましょう。
そこに書かれている事件のいくらかについて、自分で想像し、妄想し、空想し、勝手に知識が頭の中に入っていくことがあるでしょうか。
ないですね。ない。
事実しか書かれてません。事実を覚えることはできても、想像は膨らまないです。
歴史好きな方ならそうかもしれませんが…。基本、初めてある知識に触れて、その知識を種にして想像が捗る方はかなり稀でしょう。
歴史好きの方は量子力学の教科書読んでみるといいと思いますよ。歴史好きで量子力学好きな方は水理学の教科書読めばいいんじゃないですかね。
5分読んだらいやになってきますから。
Wikipediaもつまらない
Wikipediaを読んでいても同じ感想を抱くことがあります。
Wikipediaは正しさを目指してつくられる百科事典的位置づけなのでそれで大丈夫ですが、Wikipediaと教科書が同じとはどういうことか。
やはり「正しさ」しか追求できないからでしょう。
数式だけが無味乾燥に書かれていていったい何がしたいのか見えてこない。
結論となる数式が出たところで、それが一体何なのかさえ説明されない。荒涼とした砂漠を歩く商人にでもなった気分です。
一方、学校で買った資料集を授業中に読むのが楽しいのは、図や写真、グラフによって想像が捗るからです。
ただ、資料集だって「正しさ」は求めているでしょうから、「教科書が退屈なのは正しいからだ」という説明では不十分です。
資料集にあって教科書に足りない要素を探す必要があります。
教科書は単純に図が少ない
教科書に「図が少ない」ことは影響を与えていると思います。
文章だけ見ているのはいやになります。図が豊富に配置された説明文と、文章がぎっしりな説明文、説明として優れているのはどちらですか?
資料集を読んでても眠くならないのは、鮮明な図による刺激が多いからだと思うのです。教科書書く人はできれば図を増やしてもらえると助かります。
社会にそんなことを求めるな、甘えるなって?
図やグラフを一切使わず、Wikipediaから10行分の記述を完コピして、それを読み上げるだけのプレゼンをする社会人に言ってあげてください(あの人たち、卒論とかどうしたんだろう)。
そんな人の発表を聞いてもなお「私は僕は眠くならない!一生懸命に聞くんだ!楽しいんだ!」と言える方が石を投げなさい。
でも、グラフとか図がまあまあ豊富にある教科書でも眠くなることはあるんですよ。
実際日本史とか世界史の教科書、写真が全然ないわけじゃないですし、物理系の教科書でもグラフや図は載ってますから。
それでもなお、眠くなる。
ならまだ説明に足りない要素がある、と考えたほうが自然かな。
教科書の記述と歴史的な流れは逆行している
教科書の記述が、歴史的な流れと逆行している。
これなんですよ。これが言いたかった。絶対これだと思うんです。
難しい言い方をしますと、自然科学、とくに「現象」から何かを読み取って数式化する学問は演繹的には発達しません。
純粋数学は数少ない例外です。自然科学は帰納法なんですね。
もっと平易に説明します。
カラスを見ますよね。黒いです。
次の日、別のカラスを見ました。黒い。
次の次の日、また別のカラスを見た。黒い。
これをずっと繰り返した人間が思いつくことってたぶん「あっ、カラスって黒いんだな」じゃないですか。
でも、教科書にそんなことは載ってないんですよ。
だれだれさんがカラスを毎日見てたら、違うカラスみな黒いことがわかりました、それでそのだれだれさんが仮説を立てて「カラスって全部黒いんじゃね?」って学会に発表、学会は彼を追放!…
なんてことは書いてないんです。
せいぜい「○○によるカラスの観察結果をFig.1(図1)に掲載する。
これによると全てのカラスは黒かった。現在反例は見つかっていないが、全てのカラスは黒いと考えられている」とかですよ。
ひどい場合、というか大半の教科書は「カラスは黒い。」だけですからね。
これは概念や数式でも同じです。
電磁気学では必ず一番最初に「クーロンの法則」を学びますね。2つの電荷があったとき、その電荷どうしが引き付け合う力は云々、って。
でもですよ。
その「法則」って、自然界を説明するためのものじゃないですか。自然に現れる法則なわけじゃないですか。
自然界に「クーロンの法則」が現れる例を説明して、それに対して発見者がどう考え、どう説明しようとしたかを教えた方が、わかりやすくないですか?
何かの「発見」って具体例からしか起きないですよね。
そんでもってその法則って、最初から完璧な形だったわけでもないんですよ。
実例は山ほどありますが…提唱された時点で完全な、今教科書で見る形だったわけじゃないんです。
仮説どうしの生存競争を教科書に乗せるのなら
今教科書に載ってるのは、仮説どうしの熾烈な生存競争に打ち勝ってきた、強靭なものばかりなんですね。
ですから、本来なら以下のように書かれるものなんです。
○○さんがいました、○○さんはホニャララしてたとき、偶然に○○という現象を見つけました。この現象を説明するために○○さんが取った仮説は以下の通りです。
1、~~~ 2、~~~ よって~~~~
これをもとに現象をうまく説明できたので、○○さんは満足してこの仮説を学会に出しました。
ところが学会で○○先生に「これって~~~って現象をうまく説明できてるの?そっちの結果と矛盾してない?」と言われてしまいました。あっ、そっかぁ…。
○○さんは次に…~~~
こうして○○さんの数式化が正しかったことが判明し、今に至ります。
物理や数学の教科書は逆なんですよ、順番が。
こういう法則があります!!次にこれをベクトル表記します!って最初に言っちゃうもんだから、読んでる側も議論がどこに向かってるかわからないんです。
「へぇ~あるんだ。…で?だから何?」
「え~なんで急にベクトル表記し始めるの?なんで?何がしたいの?」
その後議論が着地してるならいいんですが、ひどい場合なんて「この法則を使うと~~をうまく説明できます」とかさえ書いてないですからね。
もう何がしたかったのかわからない。小一時間ほど問い詰めたい。
理解のなかで、数式は現象に先立たない
私は「人間がものごとを理解する中で、決して数式は現象に先立たない」と考えています。私が尊敬する友人の受け売りなのですが…。
これの意味するところは単純で「経験なしに何かを理解することなどできない」です。
極端な話ですけど、うまれつき色を見ることができない人間が彩色理論を学んでもそれを理解できないし、良いものにもならないでしょう。
あるいは日常で重曹に触れない中学生が重曹を学んでも、頭に入ってこないわけです。
知識とはタブララサ(白紙)的な認識の上にプレーンに上書きされるものではなく、脳内にある知の体系とリンクされるものなのです。
知識を体系化するための骨組みが、体験なのです。
ですから「偉人たちが辿った道筋を再体験させてくれる教科書」が理想なんですね。
そして世の中の教科書の多くはそれと真逆です。
道筋についた足跡を全て消し去って「これが最後の足跡です!」って喧伝する。学生はそれを見て「足跡ですね…」という認識しか持てない。
数式や法則が経験できないから、宙に浮いたままになる。
歴史の教科書でいえば、すでに整理されて正しさが保証されている解釈だけを事実のままに言っている。
偉人にフォーカスして、彼や彼女がどんな人生を辿ったか深入りすることはせず、全体的な流れを説明することに腐心するわけです。
教科書作りがそういうものなら、私は教科書を作りたいとは思わないでしょう。
もし私が何かについての教科書を作るなら……
問題提起とその解決法をテーマにした教科書を作る
「問題提起」「解決法」へのフォーカスに尽きます。
まず、「こういう現象があります。知ってますか?」ではじめる。
「皆さんはこの現象をどう説明しますか?これについて考えたのが科学者の○○です」
次に
「○○は現象のどこどこに注目して、~~という仮説を立てました。確かにこれなら、矛盾なく説明できていますね!」
ここまで説明して初めて数式を載せます。
体験の後に数式が来ているから、自分の中の知識体系とリンクされやすいんです。
最後に
「この考え方を使うと、○○という現象をうまく説明できます。現在これは~~~に応用されています」
と学ぶきっかけを与える。
ああ、世の中の説明が全部これであったなら!
もちろんこの説明法にも弱点はあります。
純粋数学のような理論について、つまり「まだ何の役に立つかわからない」分野でこんな書き方ができないということ。
それから、正しさが一定以上犠牲になること。
やはり「○○の役に立ちます」あたりは解釈問題なので、教科書執筆者も(同業者に馬鹿にされないために、あるいは突っ込まれないために)事実しか書けないのでしょう。
気持ちはよくわかります。
だから私はブログを書く
そう、だからここにこうやって文章を書いているのです。
ブログならお金を取るわけじゃないから、「正しく」ある必要がありません。
もちろん極力正しい記述はめざしますが、わかりやすさのために厳密さを犠牲にできるわけです。
わかりやすさ/厳密さ を教科書より何倍も大きくできます。
私が学んできた知識体系について、経験をもとに皆さんに共有していきたいですね。
知識といえばこちらの記事。
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