努力は結果が大事なのか過程が大事なのか

学び方
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努力は「結果」が大事なのか「過程」が大事なのかという議論

この記事を興味深く読みました。

結局、結果と過程どっちの方が大切なのか?
ディベートにおける大定番議題。結果と過程どっちの方が大切なのかについて考察しました。答えがない問題だからこそディベートの定番なのだと思いますが今回は僕なりの答えを出してみようと思います。あくまで個人の意見ですので、暇つぶし程度に楽しんでいただければと思います。

この記事は結果と過程、どちらのほうを重視すべきか、という議題ですね。

そして元記事を私なりにまとめると、以下のようになります。

「社会は過程を見て評価するわけではない、よって結果を重視すべき」

さて、こう聞くとふむふむ確かにそれはそうだ、と思うでしょう。いくら努力したことをアピールしようが、成果がなければだーれもあなたの頑張りは評価しません。

ところで私は以前、努力について以下のように述べています。

努力できるのも環境のおかげだ、と主張する人(私とかツイ主とか)は、努力から結果(客観的な成長)までのルートの長さを重要視します。

https://withtulpa.com/definition-of-making-efforts/

努力しない=甘えと主張する友人からの受け売りです。こちらは、何よりも「努力する」ということに対して重きを置きます。例えば仮に客観的な点数が上がらなくても「努力したことそのものが、よい」と考えます。

https://withtulpa.com/definition-of-making-efforts/

努力にも二つの見方があり、努力には環境が必要だ派と、努力はあくまで努力で環境は関係ない派に分かれる、という内容の記事です。

この努力の問題に絡めて「過程か結果か」を考えてみます。以下の問題について、あなたは「Aさん」と「Bさん」のどちらを評価しますか?

Aさんは

  • 家族親戚みな東大医学部出身
  • 要領の良い勉強方法を家族に教わった
  • 難関中学に合格し、勉強を楽しみながら自身も東大医学部へ
  • バイトをせず、美術館に行って文化資本を高めている

Bさんは

  • 中卒のシングルマザーが親、父親は蒸発
  • 高校でバイトをして学費を稼ぎつつ、公立大学へ
  • 奨学金をもらいながらアルバイトをして単位取得に励む

さてAさんとBさん、どちらが「結果を出した」のでしょうか?

もちろん「結果」だけを見るなら学歴的には明らかにAさんのほうが上ですね。

でも、そう単純に決めつけられない理由があります。

Bさんは片親ながらバイトまでして大学に入りました。

単純に「結果」だけを見るなら、BさんはAさんに明らかに劣っています。しかし伸びしろはBさんのほうが大きいです。図にすると以下のようになります。

ここで大事なのは、以上の例えによって「結果と過程どちらが大事なのかを、努力の定義問題が決めにくくしている」と主張したいのではない、ということです。

私が言いたいのは『結果』の定義が曖昧であるということ。

つまり、そもそも何を以って『結果』を定義するのか、という部分から議論を進める必要があります。

上のブログ記事の主(けびんさん)はここを定義し忘れているように思います。

「誰にとっての」結果なのか?という話です。

「結果」の定義、よい結果とは何なのか

結果か過程かという議論をする時、ここが乱雑だとぜったいに紛糾します。

なぜなら主に「結果」という単語は、二つの意味でまぜこぜに使われるからです。

先ほどの図を用いて説明します。

一つ目の定義は「伸びしろこそが結果」だとするもの。図にするとこう。

二つ目の定義は「最終的に目に見える成果こそが結果」だとするもの。

伸びしろこそが結果だという価値観は主に「主観的」な尺度です。

どれぐらいの環境値、初期値があって、そこからどれぐらい努力して成果を出したかという話ですから、これはもう主観以外ではなかなか測れません。

一方で最終的な成果こそが結果だという価値観は主に「客観的」な尺度です。環境値や初期値の存在はいったん無視して、個人が総合的に出した成果のみに焦点を当てますから、非常に客観的といえます。

この定義をすると、元記事でけびんさんの弟さん(以下、弟さんと略)が「いくら頑張ってもできないんだったら仕方ない」と言っていることの意味が変わっていきます。

けびんさんは「頑張るために頑張っているだけだ」と捉えていましたが、私はそう思いません。

きっと弟さんは「伸びしろをいくら作っても、大学に受からなかったらもうしょうがない、諦めよう」と言っているのでしょう。

テストにおける伸びしろといえばやっぱり点数上昇ですよね。

でも、点数上昇を伸びしろと定義すると、この話は成り立たなくなる!

点数が伸びてないくせに「点数がいくら伸びても受からなければ意味がない」と、仮定の話をするなんておかしい…。

いいえ、これ実はまったくおかしくないんです。例えばけびんさんの弟さんが「自分には環境値が割り振られておらず、点数を伸ばすためには時間がかかる」と考えていたとしたら。

その場合、伸びしろとはテストの点数ではなく「勉強累計時間」を意味することになります。

伸びしろの定義も個人によって違う

は???

そんなものが成果になるはずないだろ!という意見はわかります。よく聞いてください。

実は「何を伸びしろと定義するか」も、個人で差があるのです。

つまり、伸びしろの定義さえ「主観的」「客観的」で二種類に分かれます。

荒れ地人と畑人の例え話

これは以下の例え話でよく理解できます。

荒れ地を耕している人がいます。植物をそのまま植えても全く育ちません。

荒れ地人は仕事を終えてこう言いました。

「よし、今日はここまでにしよう!今日も成果を出したぞ!」

そこに、肥料を使った畑で農作をしている男・畑人がやってきてこう言いました。

「お前、何言ってるんだ?全く作物なんて取れてないじゃないか」

二人は喧嘩になります。

「うるさいぞ、畑人!うちの農地はまだ荒地なんだ、耕すだけで時間がかかる。

今日は1ヘクタールも耕せたから、十分に伸びしろだろう!」

「何を言ってるんだ、お前?耕したことのどこが成果なんだ?伸びしろっていうのは取れた農作物の話だぞ?」

荒ち地人と畑人のどちらが正しいのでしょうか?

勉強における荒れ地人と畑人

実際のところ、勉強についてもこれと全く同じことが言えます。

つまり、弟さんがこの「荒れ地人」で、けびんさんや親が「畑人」。

けびんさんは「点数が上がらない(農作物が取れない)ならそれは成果と言えない」と言っていますが弟さんは「今は基礎学力を上げてるだけであって点数に反映されるわけがない、勉強した累計時間を伸びしろとすべきだ」と。

さて一体、どっちが本当の「結果」なんでしょうか?

そして実際、これは例え話ではありません。実際に起きます。

ある言語の単語を覚えるとして、いくつ覚えれば文章読解でどれだけの点数が取れるのか。おそらく、以下のようなグラフになるでしょう。

語学をやってる方ならわかるかと思いますが、最初にいくつか単語を覚えても直接、線形的(まっすぐ)に点数に結び付くわけではありません。

意味がわかる単語が多くなってきて、お互いの単語の繋がりがわかるまで点数は伸び悩みます(グラフの左側)。

そして大量に覚えていくと、今度は一つの単語が点数上昇に寄与する割合がどんどん減っていきます(グラフの右側)。

こういうとき、単語を覚えてる、つまり荒れ地を耕してる人に「結果を見つめて勉強をすべきだ」と言っても効果はないでしょう。

当人は今まさに結果を見つめて勉強しているのに、それが目に見えないせいで周りは「結果を出していない」と勘違いしてしまっているからです。

結果、伸びしろについての定義のまとめ

「結果」について二つの考えがあります。

最終的な成果ではかった結果と、伸びしろと等しい結果。

このうち後者について、伸びしろの定義は人によって異なることがある。荒れ地を耕すのか畑を耕すのかで、見えているものが異なる。

これぐらい視界が違うのに、そんな中で「結果と過程のどちらが大事なのか」という話をしても、議論はめちゃくちゃになってしまいます。

なぜなら、この定義の違いは「過程」の話にまで影響を及ぼすからです。

過程の定義さえも人によって異なる

過程は「結果を出すまでの道のり」だと定義される、これはまあ、自明だと思います。

問題は「結果」が何かです。客観的な、つまり当人の最終的な成果なのか。それとも当人にとっての「伸びしろ」という主観的な指標なのか。

結果も伸びしろも人によってこれだけ定義が異なっているのに、過程だけ同じなはずがありません。いったいどこまでの道のりを「過程」と定義すればいいのだろう?

医学部の家に生まれて要領のよい勉強法を知っていたAさんは、その勉強法を知っていたことも含めて「過程」を歩んできたと言っていいのか?

それとも、シングルマザーの家庭でもめげずに勉強し続けたBさんこそ、伸びしろが大きかったゆえに「過程」も大きいと考えていいのか?

私が「この議論は難しい」と冒頭に書いたのは、まさにこれらの差をどう解決するかがわからないからです。

人によって考え方が違っていて、しかもどちらの言い分も理解できるがゆえ、もうこの問題は「定義不能」とするしかありません。

「社会が過程を見て評価するわけではない」さえも時には偽

さて、それでは最後に「社会は過程を見て評価するわけではない、結果しか見ない」が時には成り立たないことを示してみます。

結果を定義しないことにはどうしようもないので「客観的な」結果、つまり最終的な成果としておきます。

東京大学医学部(理科三類)に自分のお子さんを三人入れた母親がいます。めちゃくちゃすごい努力をして、この成果を出されたのだと思います。

名前は知らないので各自ググっていただくことにして、この方の評判をツイッターで調べてみましょう。

子供4人を東大理三に突っ込んだお母様の御著書を立ち読みしても、弁護士の精子から優秀な素材ゲットした上で子供を洗脳して詰め込んだらRPG全クリできました!としか読み取れなかった。文科省が「考える力」とやらを問うた所で、親の言うことに反発しない従順な子がズラリと上位に並ぶだけなんだよな…

https://twitter.com/nekokisha/status/1358769002508599302(現在はアカウントごと削除)

そこまで言わなくても、という感はありますが…。

母親が子ども三人を理科三類に入れたとなると、これはもう教育界で革命的な、しかも目に見える圧倒的な成果なのに、実際「結果しか見ない」なんてことはありません

むしろこの方には「そこまでして子どもの自由を奪うとか怖すぎ」「恋愛も禁止とかヤバすぎだろ」と、結果までの過程で犠牲になっているものに思いをはせて責める声が多かったように思います(よそ様の教育方針なんでそこまで言わなくてもという気はします)。

このお母さまがどうという話ではありませんが、私は巷によく聞く「結果さえ出せば過程がどうであってもよい」とか「過程がどうであっても結果が出なければ意味がない」もけっこう極端だと感じます(けびんさんがそう結論付けているわけではないのでご注意を!)。

めちゃくちゃ極端な話、大学に受かるために自分以外の受験者全員を監禁すれば結果は達せられますが過程なんてもう、ズタボロです。

勉強して点数を取るならわかりますが、点数を取ることだけを結果として過程を見ないと「じゃあカンニングだってありでしょ」となってしまう。

また、時には会社の生産性さえ無視して、自分のメンツを保つためだけに社員を侍らせる上役がいたりエクセルで仕事を自動化すると「ラクをするな!ちゃんと努力をしろ」と怒ってくる謎の上司がいたりするのも「結果だけを見ています」だけでは説明がつきません。

実際のところ「社会は結果だけを見ている」だったらどんなにラクかと思うこともありますが、ここから先はくだらない愚痴になってしまいます。

ここいらでお暇しましょう。

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