教養と知識量の多さは比例するのか、どれぐらい違うものなのか考察した

学び方
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知識と教養の違い

ネットで定義が毎回分かれて全然議論が先に進まないのが「教養問題」です。

教養とは何か、ということを語る人はほとんど漏れなく議論が収拾しなくなり、うやむやでそれが終わってしまう感じなので、自分もちょっとかじりついて火傷してみたいと思います。

「教養」がなぜ共有されないか

なぜ教養は共通認識を得られないのか。それは、この単語の持つイメージがあまりに広く、漠然としているからです。

いわば「生きるとは何か」という質問と同じで、「生きることはよいことだ」「生きることは無意味だ」「生きることとは生命活動をすることだ」と異なる切り口からの回答が考えられます。

これらの切り口を統合することさえ叶わないのは、お互いにお互いが違った意味で議論しているから。

教養もそれと同じ。そこで私は教養の定義を最初に定めておきます。

これ以外の意味では使いませんから、コメントくださるときはそこに注意してください(「教養の定義が間違っているのでは?」という指摘は互いに非生産的なので受け付けられません)。

教養とはTPOを弁えた行動ができることである

私が数百万字ぐらいの知識を身につけて(実際にノートに書き留めた量をカウントしてます)高校までの全ての教科も大学の専攻科目もほとんど全て一通り学んだうえで思ったのは、知識量と教養の間にあんまり関係はない、ということです。

タイトルで「比例するのか」と書きましたが、私の定義によればあんまり比例しません。

色んなことに詳しいけど気持ち悪いぐらいマウンティングしたがる残念な輩もいれば、自分で経験を血肉にし、言葉にしている人もいる。

私が考える教養は「知に対して謙虚でいること」を含む、より広い行動規範とでも言えるものであり、知識が多いこととは関係がありません。

もちろん、全員が教養をそう捉えるべきという話ではありませんが、私の中の教養人のイメージにおおむね一致します。そしてそのイメージが、だいたい世間のイメージと合致する実感もあります。

例えば教養ある外国人というと、日本人は「スーツ着てものすごく難しい話をしてそう」みたいな印象を受けますし、そこにあのいけ好かないクイーンズイングリッシュのアクセントを想起します。

そして彼ら(紳士?)は「弁えて」います。知り合いの「お上品な方」みたいなイメージですね。その場にそぐわないことはしない。

こうやって定義しておくと、教養人には以下のことが成り立ちます。

  • 知識をひけらかさない
  • 知らないことがあっても気が動転しない
  • 服装がしっかりしている
  • 公共の場で騒がない
  • マナーやルールについて熟知している
  • 口汚い罵倒をしない
  • 知らない人に対する軽蔑の念を向けない

悲しい話ですが、この1つや2つを満たしているぐらいでは教養人にはなれません。これらの特徴は教養人が当然満たしているものであって、これらを全て満たすことが教養人をただちに意味するわけではありません。

これは例えるなら「携帯を持っているからといってスマホを持っているとは限らない」のと同じですね。ガラケーもいますから。

そして当然、このようなふるまいをできる人は限られます。心と経済の余裕が必要なので、教養人イコール貴族、お金持ち、みたいなイメージがつきます。その逆は成り立ちません。成金全員が教養人ってわけじゃないと。

あくまで教養人の必要十分条件は「弁えている」なのです。

「品性がある」こととイコールなのか?

ここまで読んだ方の中には「それって『品性がある』とイコールなのでは?」という感想をお持ちの方もおられると思います。

明確にどの程度イコールなのかはあまりはっきりしないのですが「品性がある」は「弁えている」に含まれると思います。弁えているからこそ品性があるのです。

全てを説明する原理として「弁え」があるイメージ。

だから教養人は、ダンスパーティや飲み会では「弁えて」少しぐらい羽目を外します。当然、醜態をさらすことはありません。弁えるのですから。

しかし、「品性がある人」はおそらくこういうところでも羽目を外さないでしょう。

つまり教養の基準は周りが決めている

ですから、私の定義による「教養」の度合いは自分では計測できず、周りがそう思った瞬間に成立します。

教養がある人が自分で「私は今、こういうことを行うことを期待されているな」と思って行動したことと、周りがそれを見て感じたことが一致すれば「教養がある」と評価されます。

ですから、「気が利いている」も含むかもしれません。

よく「教養がある人は自分のことを教養があるとは思ってない」なんて言いますが、その理由もこの定義ではっきりします。

「俺って教養に溢れてるよね」と真顔で言った瞬間、もうその人は教養がなくなります。知識をひけらかしすことを周りに期待されていない(弁えていない)からです。

そういう人は「博識」ではありますが、弁えていないので「教養がある」とは呼びません。

知的な人と教養がある人も違う

同様の理由で知的と教養もまた別です。知的な人は教養がある人に含まれます(それぐらい教養は大雑把な単語なのです)。

知的な人はそこに品性を必ずしも伴わないというか、相手が何かの単語を知らなかった時に「ケッ!そんなのも知らないのかよ」と侮蔑することがあり得る、というイメージを私は抱いています。

しかし教養人はそういった場面でも「あらあら…」と心の中で思って親切に意味を教える感じなので、やはり弁えています。

知識があってなおかつ弁えられる人が「教養がある」、知識はあるが弁えるかどうかはわからないのが「知的」。

それでは、知識が全くないが弁えられる人は教養があるのか?

私の定義では、それは「ない」になってしまいます。

知識が全然ない人は「弁える」ための知識がそもそも頭にないので、知識が必要な場面で弁えることができないからです。

知識の余裕線が周りの平均よりもだいぶ上にあるがゆえ、ほぼ全員に合わせることができるのです。知に謙虚でも物事を全く知らない人は、私の定義では「教養人」には入りません。

こうやって考えてみると、それでは教養ある大学教授は荒くれ者(盗賊とか?)の飲み会に参加しても彼らに合わせて「弁える」ことが可能なのか、という疑問が出てきますが、私はこれについての解決法を持っていません。

ただ、それぐらいの例外事項を考えない限り、私の定義は崩れないものと確信しています(他に反例や先ほどの問題の解決策があれば、ぜひ教えてください)。

「教養」をけっこう包括的に定義できた気がする

ということで、私が思う「教養」の定義はこんな感じです。「弁える」によって定義しておくと「品性」とか「知的」みたいなのを全部ひっくるめることができるので便利ですね。

教養問題で相手を論破したい方はぜひお使いください。論破した瞬間あなたはもう教養人じゃなくなりますが…。

それと、本当に教養問題を知りたいのなら、Wikipediaの「教養主義」のほうがよっぽどよくまとまっています。興味のある方はそちらもお読みください。

教養主義 - Wikipedia

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