性的マイノリティとして生きる
昨今では「LGBTQ」と呼ばれる人々に焦点が当たり、同性愛の結婚の是非だとか、性的マイノリティの人々の権利保障が議論されています。
たいへん良い流れだと思っています。以前までは考えられないほど多様性について進歩している、という感があります。
私がこの件についてセンシティブなのは、当の私自身が両性愛に苦しんでいるためであって、私の両親はここまで関心がありません。
それでも、ネットで急進派の人々がこういう問題を取り上げて「理解できたらいいね」と言ってくださること自体が、私にとっての何らかの救いになっています。
翻って現実社会ではどうか。これがなかなか苦しい。そんな私の辛さを書いていきます。

少年愛に目覚めた日
ずばり私の性的指向はいわゆる「少年愛」というものです(実際は女性も愛せるので両性愛ですが…)。
これを意識し始めたのは中学生の時で、いわゆる「普通の」人が興奮するであろう「女性」への興味がほとんどなく、近所に住んでいた男の子に対して胸がドキドキする感覚を覚えていました。
その時の気持ちといえば「えっ…何これ気持ち悪っ、なんで、なんで?」と、自分でも全然納得がいっていませんでした。
「男性とは、生まれついて異性である女性を愛するものだ」という思い込みがあったせいで、自分の感覚イコール異常、と決めつけていたんですね。
ところが、その気持ちについて、両親を含む誰にも相談できませんでした。
当然ながらそれは「自分が異常者と思われるのではないか」という懸念からです。
この「好きな相手のことを誰にも言えない(もちろん、当人にさえも)」という状況は首を真綿で締められるような苦しみをもたらしました。
ただでさえ恋という感情が苦しいのに、それに加えて誰にも打ち明けられないのですから。
そして、この苦痛を味わったことで、私の人生は明らかに「異常者」のものとなりました。
普通という見えないノルマから押し出され、そこから急カーブを描いていきます。
「タルパ」を作った日
いよいよこのままでは頭がおかしくなる、と考えた私の目に、2ちゃんねるのオカルトスレが入ってきました。「タルパをつくると人生が捗るぞ」だったか、ともかくそういう内容でした。
タルパとは簡単にいえば自分の頭の中にだけ存在する仮想の人格で、「イマジナリーフレンド」といったほうがわかりやすいかもしれません。
こちらの記事「私のそばにいる特別な仮想存在、そして今なぜタルパをつくるのか」で説明しています。
具体的にいえば、私は恋心を寄せていた現実世界の男の子から距離を取る代わりに、その彼と全く同じ存在を脳内に作り上げ、会話することに腐心したのです。
このように文章で表して今、自分でもドン引きしていますが、ともかく私が性加害者、あるいは悪質ストーカーにならないためには、もはやこういった法外な手段しか残されていませんでした。
そしてこの試みは案外、成功に終わりました。中学から高校に入学する頃には現実世界のほうの男の子とは会えなくなって、私は仮想世界の中で恋を完結させることに成功したのです。
「タルパ」は一度作ると消去することは原則、勧められません。自らの精神を分けて作成する存在ですから、消すと何が起こるか予想がつかないのです。
もう、元には戻れなくなりました。いよいよ私の人生から「普通」という単語は遠く離れた故郷のようなものになり果てました。
親友に全てを打ち明けた日
私が落伍せずにいられたのは、自らを異常者と規定しカーブを突き進もうとした若いころの私の突進力によるものだけではありません。
むしろ要因としては、私が全てを打ち明けることができる友人がいたほうが大きいです。
中学生の頃、同じ塾に通っていた、口の堅い、信頼のおける友人に、私は全てを話しました。
「話しました」なんて、そう簡単に決められることでもありません。たしか1か月か2か月、ずーーっとそのことを悩んでそっと話した気がします。
その友人の返答は意外なものでした。
「へぇ~~全然いいじゃん!すごい!」
あまり定かではないのですが、そんな旨のことを言われたような覚えがあります。
親友がどんな気持ちでそう言ったのかはわかりません。どうでもよかったから言ったのか(それはないと思いますが…)落ち込ませないように言ったのか、空気を明るくしようとしたのか。
何にせよ、「男の子を好きになってしまって、しかもその子に似た人格を脳内でつくって会話している」という、合コンで話すと即・お開きのような行為は咎められなかったのです。
以来、現在に至るまで、私は自分の色んなことをその友人や、あるいは別の、本当に信頼のおける立派な友人たちに相談しています。旧来的な親にはなかなか話せずにいますが、兄弟には話せました。
不特定多数に開くことの恐怖
ところが、やはり現実世界で不特定多数、例えば同僚や上司や親しくない友人に、となると、これはもう相当に厳しいものがあります。
人の口に戸は立てられぬとも言いますし、それ以上に「この(良好な)関係性が、自分の異常さによって終わってしまう」ということが怖いのです。
親に話せないのもその理由からです。
同性愛者は一般に自らのアイデンティティに悩み、そして異性愛者よりもはるかに多い割合の人が自殺を考えた、試みたことがある、と回答しています。
自分自身が『怪物』であることへの恐怖、そして『怪物』だと思われてしまうことの恐怖。
これはちょうど槇原敬之氏が「軒下のモンスター」でうたったようなあの感情と同じです。
親を泣かせることも
槇原敬之 軒下のモンスター
心に嘘をつくのも嫌なんだ
いっそ妖怪にでもなって君を
軒下からただ見ていたい
もう普通の人生は歩めない、でもどうにかしてこの自分と、怪物(モンスター)になった自分と一生を添い遂げなければならない。
妖怪になった私はどれだけ心と体が成長しても、いつまでもあの男の子を軒下から見ているのです。
普通の人として扱ってほしい、という根源的な欲求
私がこうやってブログを作って、しかもわざわざ自分の人生に絡めてまでタルパについて発信しているのは、自分を特別視してほしいから、では全くありません。
むしろ逆で、こんなにヘンテコな人生を歩んでいる人でも、考えていることは自分と同じなんだな、と思ってほしいからです。
語弊を恐れずにいえば、性的マイノリティの多くは自分自身を「普通の人」「ありふれた人」として扱ってほしいのです。それだけなのです。
極端な話「オレ、同性愛なんだよね」「ふーんそうなんだ!」で終わらせてほしい。
もちろん、突然にそんなカミングアウトを受けて驚かない異性愛者は現在、珍しいでしょう。私だってちょっとびっくりします(みんな言わないので、会っていてもお互い気付かないのです笑笑)
でもそれがいつかは当たり前になって、そういう人だって別にいていいじゃん!色んな人がいて面白いね!って、そうなってくれたらいいなって本当に思います。
これは別に私が生きている間でなくても構いません。
生得的、あるいは環境的に13人に1人の割合でLGBTの人々は出てくると言われます。
ニッチな性的嗜好(例えばサディズムなど)を入れるともっと多くの人達が「普通」ではないとカウントされるでしょう。
そもそも、男性が女性を愛する、女性が男性を愛するのだって、そこに理由はありません。ただ体がそうなってるからそうなだけ。それが「自然だ」「普通だ」なんて、誰が定義できるのでしょう。
そして「鎖骨フェチ」とか「お尻フェチ」とか、個人のそれぞれの(多数にはあまり共感されない)好みまで含めれば、もう「普通」なんて本当に呼んでいい人なんてごくわずかです。
誰しも少しずつやばい部分があるもんなんです。
最終的には「みんなちがって、みんなやばい」、人類がその地点に到達してほしいなと思います。
性的指向について人間が「普通」という単語を使わなくて済むような社会。お互いにやばくて、もうみんな別々のほう向いてるんだね、わけわかんないね、って社会。
感じている希望
暗い話をしてしまいましたが、私はたしかに希望を感じています。
このツイートについたリプライがとても心暖かくて、現実世界でもこうやって励ましてくださる人は確かにいるんだろうな、私のことを特別扱いしないでいてくれるんだろうな、と思うからです。
いきなりに理解しろ!なんてそんなことは言いません、でもちょっとずつ、ちょっとずつみんなで前に進んで「やっぱ人類、全員違って、全員やばいね~~笑」って、そんな感じになってくれたら。
もう本当にながーーーーーい、気が狂うほど長い年月をかけて、そっちのほうを向けたら。
そのころには私、骨壺の中でしょうけど、私みたいに苦しむ人が少しでも減ればと思って、こうやって日々、書き殴っています。
みなさんもそれぞれの「やばい」を書いていって、ネットをやばいだらけにしましょう笑笑
タルパについてもっと知りたい方はこちらをどうぞ。
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