「努力できるのも才能」は正論ではなく、むしろ成功の可能性を減らす

心理学
この記事は約7分で読めます。

努力できるのも才能の一つ、なのか

私がインターネットを歩いていて、出会ってけっこうイヤな気分になるのが「努力できるのも才能」という言葉です。なぜそれが嫌なのかとか、論じていきます。

こういった議論にはたいてい衝突がつきものですから先に補足しておくと、以下のことは私は「述べていない」のでご注意ください。

  • 努力できない奴はアホだ。
  • 努力できるオレは偉い。
  • 成功するためには努力しかない。
  • 頑張りたくても頑張れない奴なんていない。

努力できるのも才能、としてしまうことによる問題

私は以前の記事で、以下のように述べました。

努力できるのも環境のおかげだ、と主張する人(私とかツイ主とか)は、努力から結果(客観的な成長)までのルートの長さを重要視します。

https://withtulpa.com/making-efforts/

努力できるかどうかは環境にかかっている、と私はある程度までは思っています。もちろん、何を努力するかにもよりますが。

でもそれは、そう考えないと強者(私)が弱者を徹底的に正論…強者の論理…で攻撃してしまうからであり、頑張りたくない人に頑張らない理由を与えたいのではありません。

自分の意見の緩衝材として述べている、というのが近いでしょうか。

だから私は「頑張りたくても頑張れない環境にある」人がいることを知っていますし、認めています。そういった人達に「お前が頑張れないのはお前のせいだ」と述べるほど冷血ではありません。

インターネットは、こうした「むさくるしい」意見で溢れています。もっとやれる、お前が駄目なのは頑張ってないからだ、結果を出せ、努力しろ、と。

しかし一方で、自分を甘えさせる言論が蜜の泉のように無尽蔵に流れていることも確かなのです。

「頑張りたくない」人間が、「頑張らない」ために「頑張らなくてもいいよ」という(本来は彼ら向けではない)言論を笠に着て「努力できるかどうかも本人の才能だ」なんて言いだしたら、そこから何が始まるのか?

何も始まらないですよ。終わります。

努力の才能なんてありません。

それは才能ではなく環境の問題ですし、環境さえも、本人がどうにかコントロールできる部分が確かにあります。

それは今ある環境というより「どういう環境にしていきたいか」です。

私の友人の話です。友人は十数年間、肥満で悩んでいました。体型が大きいことがコンプレックスで、今まで何度かダイエットを試しても長続きしませんでした。

しかし、1日数千歩のウォーキングと軽い食事制限(糖質制限)だけによって体重を十数キロ落とし、服のサイズを一段階落とすことに成功しました。

食べ物の好みも変わり、ケーキや大福を見ても心が動かされなくなったそうです。

では、なぜダイエットに成功したのか?

環境はもちろんあるでしょう。もし友人が究極に貧困で、野菜や肉中心の生活をできなかったとしたら。おそらくダイエットには失敗していたと思います。

幸いにそこまで貧しくなく、お米を全て芋に変える生活も可能でした。

でも考えてみてください。

世の中には、そういった貧困にはないにもかかわらず「痩せられるかどうかはその人の体質だ」「水を飲んでも太る自分はダイエットできない」「貧困層はダイエットできない」と、自分を甘やかしている肥満がいます。

確かにいます。過去の友人です。

「痩せにくい体質、痩せやすい体質がある」こと、「めちゃくちゃ貧しければ菓子パンを食べるしかなく、痩せられない」ことは認めます。

しかし、それを自分自身にも無制限に適用してよいわけではありません。

我々の行動決定意志に環境が及ぼす影響は大きいですが、どんな環境にしていきたいか、までをも制限する理由ないのです。

変わろうと思ったその時に変わる自由が、我々にはあります(あることが多いです)。

努力と才能の違いはよく考察されますが、真理がわかったかのように「努力できるのも才能のうちだ」とレツアク言論中古市場に並ぶ粗悪正論を身にまとっていると、本来なら可能だった成長や変化も拒んでしまう、というわけです。

よって私は「努力も才能のうちだ」という考え方に反対しているのです。

成功することには才能が必要かもしれない

ただし、この論には続きがあります。

例えばもしあなたの友人が今「陸上選手になって、ボルト選手の記録を超えたい!」と言ったら。

もしそのご友人がかなり足がはやく、100m10秒台余裕綽々なら可能性はあるでしょう。しかし、幼少期に全く陸上をしてこず、しかもどこかの大学に通っていたり、もう働いていたりするなら。

それは絶望的ですよね。

こうした「成果」について努力は意外に冷徹で、私は何なら「成果が出た努力だけがまわりに評価されるのでないか」とさえ思っています。

極論、絵が上手くなりたいのに千本ノックしても意味ないですし、それは「絵をがんばったね」という評価にはつながらないでしょう。

成功することには才能が必要かもしれません。特にスポーツや芸術の分野なら。

同じぐらい努力してる人がひしめき合っている中、誰が報われるのか。

正直、運だとしか言いようがない部分があります。「嚢中の錐」とは言いますが、まわりに錐だらけのバッグの中で自分だけが突き出せるかと聞かれると、なかなか厳しいものがある。

ただ、それは「努力をしなくてもよい」という理由付けにはなりません。努力をして初めて運ゲーに立てるのに、運ゲーが嫌だからと言ってゲームにエントリーしないなんて、ばかげていると思います。

努力できるのも才能、と思わないのも才能?

さらにばかげているのは、こうした思想を誰か(インターネットの有象無象を想定してます)に語ると「ケッ!お前がそう(努力できるのも才能だと)思わないのも、結局才能なんだろ!?」と言われがちであることです。

私もいくらかの領域で努力を重ね、素人よりはまあ確かにうまくなったな、と思うものがあります。文章や絵や服選びや断捨離のスキルです。

そうした成功体験があるからお前は「努力できるのも才能というのは詭弁だ」と思うのであって、その思想すらも環境だろ?才能だろ?と言いたいようです。

なんとかして自分をメタ化していないと気が済まないようなので、そういった輩は無理やり土俵に持ち込みます。

「ではあなたは、自分の努力で自分の能力を上げたことが一度もないのですか?」と。

いやいや、そんなはずないですよ。

テスト勉強をすれば報われるし、運動すれば筋肉がつくし、舌を鍛えれば滑舌がよくなります。

どれもみな、当たり前の話です。やってみればよろしい。

でも、そんな経験が「一度も」ない人間がいるというのか?

百歩譲って、そういった人間が「努力できるのも才能だ」というのならわかります。納得します。

ですが、たんに頑張りたくない理由をつけたくてそう言っているのなら…それは悲しいですね。

全てを環境に棚上げすると「運命論」に帰着する

世の中には「これはもう、どうしようもなかったよね…」という状況で犯罪を起こしてしまう人がいます。例えば強盗が入ってきて、たまたま包丁を投げつけたら強盗が死んだとか…まあ、そういう類の。

一方で、「これは擁護できないだろ」という理由で犯罪を犯す人もいます。その線引きが人によるのはしょうがないとしても、全て環境のせいだ、という思想の人は、この問題についてどう思うのでしょうか。

もし「努力できるかどうか」どころか「人が何の思想を持つかどうかも、その当人にはコントロールできない」と考えるのなら。

おそらくその人は犯罪について、その一切を「罰してはいけない」と思わなくてはならないでしょう。犯罪だってある種環境が引き起こした問題なわけですし。

そしてさらにいえば、この類の「環境が悪いんだ」論は、究極的には運命論的な価値観に繋がっていきます(哲学的に厳密な運命論ではないですが)。

「おれが成功しないことは、宇宙が始まった時から定められていたんだ」的な。

自分の価値観は自分ではコントロールできないというなら、自分が明日何をやるのかも何を考えるのかも全て外部に制御されている。犯罪をおかそうが誰かを愛そうが、それは自分自身の意志ではない…と。

それ、めちゃくちゃ生きづらくないですか?

すみません、余計なおせっかいで。

努力しようとあがくことは「才能」ではなく、意志の問題である

努力できるかどうかは今の環境によっている。これは確かに認めます。

しかし、私は「努力できる環境をつくろうとするか」まで、環境の問題だとは思いません。

それを環境だと認めてしまうと、我々人間に自分の意志は全くなく、自分自身で自分を変えることさえかなわなくなってしまうからです。

自分が望めば自分はいつでも自分の望む方向に進める…そういった希望は、人間が最後まで失ってはいけないものだと感じます。

底辺の底辺の底辺、人間がどんなに泥水をすすっていても、やはり最後にはそんな類の希望が、人間性という断絶を通して領域を大きく二つに分かつのでしょう。

死ぬまでずっと「腐らずに」生きていきたいですねえ、みなさん。

コメント

タイトルとURLをコピーしました