現実世界の友人や知人との議論は、ネットのレスバトルより無益なのか

インターネット
この記事は約11分で読めます。

知人や友人との議論と、ネットでの議論はどちらが有益

私は某匿名掲示板あがりの人間です。

普段は「差別はんた~い!」とキレイゴトを述べていますが、思想のバックグラウンドには確実に、軽蔑、侮蔑、人格否定、誤読、条件反射、差別、動物的本能が渦巻くあの醜い書き込みたちがあります。

私はあまりにも長くそういった穢(けが)れに身を置きすぎて、現実世界の力学を知らずに他人や世間や社会や人間関係を見下す思想だったのですが、あるブロガーの記事に救われて今に至ります。

私の批判記事の多くは、過去の私を直接的に断罪し、批判する内容になっています。

そういうわけで、私はネットでの議論がいかにロクでもないものかを知っています。

互いに良心を規定せずつぶやかれる単語たちに有益なものはほとんどありませんし、本気で向き合うならば限りない自己の消耗に耐え切れなくなり、何かの病にかかってしまいそうです。

これは、私が10年間ほどネット空間、それも飛び切りうんざりさせられる落書きどもが跋扈する場所を渉猟して得た、数少ない経験則でした。

…というようなことを思っていたため、あるフォロワーさんとの会話で「はえ~、そういう考え方もあるのか」と新鮮な感情を抱きました。

つまり「お互い知り合った相手と議論をすると、そこに主観が混じってしまう」(=ネットの、知らない他人同士の、文字だけによるやり取りが望ましい)ということのようです。

この書き込みを理解するためには、それこそ残念主任(@zannensyunin)氏のバックグラウンドを知る必要があると思いますから、紹介します。

残念主任氏は以前、こういう感じの記事を書いておられます。

【独言】論破は不要とかいう詭弁②〜自慰行為的自論と未完成な矛盾を抱えた自論〜
今日は2本書き上げてしまおうと思う。自分の中で大事な位置付けであり、勘違いされることが嫌な分野だから。この記事からの続きなので、もし興味があればお読みください。前回、私はなぜ反論は発生するのかを書きました。では、本題。なぜ人は反論の先は論破

どうすれば議論を有意義にできるか、という内容で、その結論は「議論に共感や感情を求めない」「議論において、一般人(議論に深くない人間)が『論破』という単語を濫用しがちであることを了承する」という二つだったように思います。

後者の文脈ですが、これは例えば私が(議論の経験の浅い)知人に「それは○○という理由で違うんじゃないか?」と指摘した時、知人が「そうやって論破するなよ!」と言ってくる…という可能性を(私が)ちゃんと考えましょう、という話のようです。

本来、議論において自分の考えに反論が出るのは当然なのですが、議論の経験が浅い人はどうしてもその反論を冷静になって聞けず、ほぼ反射的に「論破された!」と反感を覚えるのです。

それをちゃんと自覚して「議論」をふっかけましょうと。耳が痛いですね。

今回、議論について議論するつもりはないのですが、少し引っかかったところがありました。

これは私の、私個人の見解です。

ですが、私は会議や討論に、

他者との共感を求めた時点で、

その議論に価値はないと思っています。

(中略)

討論・議論・会議に求められるもの、

それは、共感でも、協調でもないもの。

より良いロジックはないのか?

みんなの知恵を貸してくれ。

https://hinos-life-never-give-up.com/%e7%8b%ac%e8%a8%80/1254/

「共感」が論理を曇らせる?

件の記事やリプライによれば、残念主任氏は「自分自身の論が矛盾していると気付くことが自分にとって大事だし、そのためには色んなものを利用してみせる」ようです。

だからこそ「議論や価値観が矛盾していることを、相手への共感という『情』に流されて指摘できなくなる」ことが無益だと考えておられるのでしょう。

一方でインターネットの議論は、良い意味でも悪い意味でもお互いの人生や価値観(私はこれを以降、「文脈」と総称します)を知らないから、溌剌とした「論理による会話」ができる、と。

そういった場では現実世界よりもお互いに論理的矛盾を指摘しやすく、有意義であると。

本当に、文章だけで他人の意見を聞きたいだけなので。
知り合いとの議論は、ある種の共感を得るだけで、
本当の正反対の意見を貰い難いです。

例えば、私がルナールさんの友人であれば、
多分ここまで正反対の主張はしないはず。

それは、あなたという一個性を尊重してしまう
主観が混ざるからです。

https://twitter.com/zannensyunin/status/1384841558512607238

めちゃくちゃ乱暴にまとめてしまうと「共感が論理を曇らせることがある」という論旨ですね。

まあ、確かにこれはよくわかります。

「ダイエットしたいな~」とつぶやく同僚が、社食でカツカレーとうどんと豆大福を平らげているのを見ると「それは矛盾してね?」…と言いたくなるのをおさえるのに必死だったりします。

そういうとき「矛盾してね?」と言うとたぶん「論破されたァ!」と思うのでしょうけど、それはたぶん人間心理として非常に自然です。

でも、インターネットにはそういうのがない。

事情だけ全て書き記せば「>>1 アホか 痩せたいのに食ってて痩せれるわけないだろ まず摂取カロリーを抑えることから始まるんだよ テメエの心の中のデブを殺せ」と書かれるのです。

そしてこれは、良いことでもあり、悪いことでもある、と思います。

そもそも人間は感情ありきの生き物だ

なぜなら、人間はそもそも「感情ありき」の生き物だからです。

伊藤計劃氏(「虐殺器官」で有名な、夭折した小説家)の著作「ハーモニー」には、人間の心がいったい何なのか、わからなくなってしまう設定が織り込まれています。

ネタバレなしで説明すると「自分が思うほど、自分の精神状態は確固たるものではない」と思わされる事例です。

そんな設定を彼が書くに至ったのは、とある原体験を彼が得たからのようです。

伊藤氏は肺がんによって若くして亡くなってしまいますが、がんという大病に精神的に立ち向かうため、医者から安定剤を渡されました。

それを服用した瞬間、心の中の絶望や恐ろしさがすーっと消えていって「あれ?化学物質ごときで制御される『心』って、何なんだ?」と怒りがこみあげてきた、というエピソードです。

じぶんが、からだでしかないということを知っていて、そこから逃れられないことを知っていて、死ぬのが怖い自分。

ヴィタール 伊藤計劃:第弐位相 https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20041211/p1

そして実際、このような事例は無数にあります。ADHDである私の友人はコンサータという薬を服用しており、それを朝に飲むと「一日の作業が捗ってしょうがない、眠気も日中は来ないし、音や光に惑わされずに済む。自分が自分じゃなくなったみたい」と言っていました。

理性とは、感情という大波に飲まれる小舟のようなものです。

私が今、平穏な心で生きられているのは、私の脳がストレスを感じにくい構造、幸せを感じやすい構造になっているからにほかなりません。

それは偶然の産物であって、私の人格のおかげではないと考えています。

これほどまでに制御困難な部分が心にはあり、心は生化学的なプロセスによって決まります。

意識さえしていない部分にこそ人間の本質があるのなら「ロジックだけ冷静に見つめれば、問題は解決する」というほど事態は単純ではないでしょう。

太った人が、太っていることを自覚しながらも食べてしまうように。

まさに人間は「感情ありき」なのです。

文字上のレスバトルさえ「流れ」で多くが決まる

残念主任氏は文字だけのコミュニケーションに活路を見出しておられます。

たしかに、矛盾を面と向かって指摘しにくい構造が現実世界のコミュニケーションにはあります。そういったものが議論の上で邪魔と感じることもあるでしょう。

その面良い意味でも悪い意味でも「書き捨て」的な議論、ツイッターや匿名掲示板の論争のほうが「ドライで自分の体に合っている」と感じる人は案外多いのかもしれません。

ただ、そっちのほうがメリットが多いかと言われると、そうとも限らないでしょう。

前にも書きましたが、こういったプラットフォームでの議論は「最初についたいくつかのコメントが、あとのコメントの大勢を決めうる」からです。

そういうことです。

これは特にYahooニュースのコメント欄やSNS「はてなブックマーク」、ツイッターなどをしている方ならおわかりでしょう。ブロガーのみなさんならなおのこと。

コメントする側は「論理」とか考えてません(考えてる人もいはする)。

それよりは「相手をいかに貶めるか」「場の雰囲気に合わせ、『いいね』を稼ぐにはどうしたらよいか」に思考のリソースを費やしてます。ソースは私、それから10年来の定点観測。

だから、最初に書かれたコメントが大勢を決めうるのです。

これは、ネットニュースでよく聞く「ひろゆき氏が正論!?」「林先生の正論にネット民、称賛」云々というキャッチコピーが物語っています。

実際のところ、ネットで喧伝される「正論」とは、実際に論理的に正しいかどうかより、世相を辛辣に叩き切っているように見えればよい、ぐらいのものでしょう。

ちなみに私もよく「すばらしい正論ですね」と言われますが、これは生来の、ものごとを裏から透かしてのぞく思想が私を皮肉屋に仕立て上げたからだと思っています(反省は、しています)。

それに、他人だからこそ好き勝手アドバイスができてしまう、という側面もあります。

それがありがたいと思う人はいてよいのですが、私はYahoo知恵袋などで「夫が○○です、どうしたらよいでしょうか」と聞く気はありません。

そんな質問をしてしまったら、あまりにカジュアルに、あまりに投げやりに「すぐに離婚しなさい。」と命じられてしまうからです。そ、そんな…。

だから、見方を変えてみればこうも言えるのではないでしょうか。

あなた自身の「文脈」を慮らってくれる知り合いのほうが、ネット上の他人よりも実情に即した、ゼロかイチか思考ではない、グレーゾーンでのアドバイスをしてくれる、とも。

そして議論は、案外そういった複雑な力学関係をもはらんでいると思うのです。

文字上のコミュニケーションで解決するわけではない。解決するならG20サミットは不要のはずです(各国首脳がRedditで議論すればいいのですから)。

いざというときに協力してくれるのは普段から自分がよくしている人達でしょうし、自分を嫌っている人たちに会議中「ここは論理で考えよう、俺に協力した方がいいと思わないか?」と説いたところで「ケッ!お前のことが嫌いだから協力したくないんだ、何か文句あっか?」と言われて終わってしまうように。

あるいは、ネットの赤の他人に相談事を持ちかけたところで「それはお前が悪い」「甘えるな」「矛盾している」と指摘され、どうしていいかわからなくなるように。

やっぱり、文脈を理解してくれる友人や知人が、あなたの「情」を汲んで共感してくれて、論理や矛盾ではない、何か別の解決策(心に寄り添ったもの)を提示してくれる可能性は無視できないでしょう。

少なくとも「無意味」とまでは思いません。

人間は感情ありきの生き物だから。

そしてこれは、当の残念主任さんも認めておられることです。

残念主任氏は「自分を信じていない、自分を疑って疑って高みを目指す」とおっしゃっていました。

そこで私は「自分の思考に矛盾がないことを自分では証明できない(から、他人を頼るほかない)」という事実を、数学のとある証明によって示したのですが、その時のご回答が上のような感じだったのです。

定理とか公理とか知らねえよと。

まあ、無理でしょとアタマでわかっていても、それでもなお「無理じゃなければ面白いな」と思えることこそが、人間が論理だけで生きてはいないことの証明なのではないでしょうか。

残念主任氏の発想は正直、世の中のすべての人が実行可能なほど甘いものではありません。

しかし、その険しさを知ってなお「登りたい山がある」というのなら、私は手放しで称賛を送りたいと思います。

議論において「矛盾」をつきつめ、考えをよくしていくことを至上とされる方が、最後の最後に論理的な矛盾をあえて止揚せず「でも、だからこそ面白い」とおっしゃることにこそ意味があるのです。

矛盾を抱えながら生きる人間たちとわたし

議論をしてて「どうしてそこでそうなるんだ!」「今のはおかしい!矛盾してる!」と思うことがないわけではありません。

でも、その人の立場になって考えるとき、その矛盾もまた人間くさくて私は好きなのです。

無意味な議論に辟易することもありますけど、矛盾だらけの人間が集まっているのだから当然です。生産性が落ちてしまうことをよしとしたいわけじゃないんですけどね。

矛盾をはらむ複雑系が74億集まって暮らしています。

あなたも矛盾しているし私も矛盾している。

でもだからこそコミュニケーションは面白くて、お互いの矛盾を笑って許すことができる。感情があって血が通っているから。

感情の価値は、きっとそこにあるのではないでしょうか。

ビバ、感情!

なくなれ、レスバトル!!!破ァ!!!!

コメント

タイトルとURLをコピーしました