「勉強だけできても役に立たない」と言い出す人の心理を考察したら「嫉妬」だけでもないとわかった

学び方
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勉強だけできても役に立たない、らしい

いちこ(@ichiko_ma)氏のツイートです。

勉強に関する価値観はけっこう断絶があって、これに100いいねがついているのもいちこ氏(や私)が「ブログ界隈」という、なんやかんや文章が読めて書ける層にいるからで、実際には世間はもっと勉強(や勉強を頑張った人)に対して冷たいというか、薄情なところがあります。

私は学歴なんて所詮「18歳までに学校から出される課題をどれだけこなしたか」でしかないと思っているので「学校の勉強は役に立たない」なんて本当に自分でそう思っていますし、だからこそ「学校の勉強」にとどまらない学びを得ていると自負しています。

さて、今回は「学校の勉強だけできても役に立たないよ」「お前は勉強しかできない」と言われたとき、それについてどう思うべきか、どう言い返すべきかを考えてみます。

「勉強」の定義

ここで、勉強という単語について定義しておきます。

勉強を「高校までで学ぶことがらのペーパーテスト」と定義します。このように定義したのには理由があります。

勉強しかできない人は役に立たないぞ、と言われる文脈として想定されるのは「親戚のおじさんが酒の席で、高学歴の人にくだをまいている」場面だからです。

ここで本質になるのは「高校まで」と「ペーパーテスト」という二つ。

例えば大学以降にも学びの場は果てしなく広がっており、アカデミアなら博士課程以降、ビジネスなら資格、MBA、仕事の知識などで我々は「学び続ける」必要があります。

しかし、酒に酔ったおっさんだってそういった文脈では「学んで」いるわけで、まさか自分のことまでを指して「勉強だけ出来ても役に立たない」と言っているわけではないのでしょう。

若輩者に対して説教するときに使うわけですから、「高校まで」と定義しました。「大学まで」ではないのは、日本は大学に入ってしまえばほとんど卒業までが容易で、留年などはしつつも多くの人が卒業するからです。

よく言う「入るのは簡単、出るのは難しい」である欧米の大学と異なり、日本は「入るまでが一番難しい」のですね。知り合いの東大出身の人が「オレが一番頭がよかったのは18歳(受験期)だった」と自虐して述べています。

多くの東大出身の方なら首肯できるのではないでしょうか。

また「ペーパーテスト」という点も本質です。例えばサッカー部の人はサッカーについて実践を通じて「学び」続けているわけですが、パス回しやフェイントなどの技法について「勉強だけできても意味がない」と言い出す場面は少し不自然です。

もしそういうことを言うとしたら、監督が実践の伴わない部員を激励するために「お前も動画ばかり見てないでパス回しを実際にやってみろ」と言う…ぐらいでしょうか。

なんにせよ、「勉強だけ」という単語の背後には「ペーパーテストばかり」あるいは「座学ばかり」というニュアンスがこめられています。

「勉強だけできても役に立たない」の心理

それでは、「勉強だけできても役に立たない」と言っている本人の心理を考えてみましょう。よくこういう感情は「嫉妬だから気にしなくてよい」と語られますが、嫉妬だけでは解像度が少し低いような気がします。

私が考える限り、この発言の心理は以下の三つに分類されるでしょう。

  • 勉強だけできても役に立たないと経験で知っている
  • 以前、勉強しかできない人が周りにいた
  • 勉強できれば評価される社会が憎い

勉強だけ出来ても役に立たないと経験している

まず一つ目に、勉強だけできても意味がないことを経験で知っている、という場合。ちょうど陽明学でいうところの「知行合一」(ちこうごういつ)に似た感情でしょうか。

知行合一とは、知ることと行うことは同じである、という考え方です。実践しない知には意味がない、とか、認識と体験は不可分であるというように解釈されます。

かくいう私も実際にこの思想だったりします。高校までで学ぶ勉強はそれ単体を持っているだけでは意味がなく、それを大学以降でどう展開するかのほうが大事だと考えているからです。

例えば大学入試の評論文やその点数には意味がほとんどありませんでしたが、文章を解釈して書く、という営みは日常でもブログでも広く役に立っています。

例えば高校までの数学はそれ自体に意味はありませんでしたが、大学以降で研究や業務を行うときに役立っています。

陽明学でいうところの「知」は厳密にいえば知識ではなく知恵とか道徳ですが、ここでは「知行合一に似た考え」としておきましょう。

なんにせよ、自分の経験から導き出した知行合一のために「勉強だけ出来ても役に立たないぞ」と言っている場合は考えられると思います。

私も、大学に入ったのにいまだに模試の点数を自慢してくるような輩とは距離を置きましたし、誇れるものがない人にはもう全国模試の順位しかないのだな、とあわれに思っていました。

勉強しかできない人を知っている

二つ目に「勉強しかできない『使えない』人を知っている」からという場合。

ペーパーテストの点数と一般常識・業務能力はまた別のようで、たとえばインテリの棺桶に片足突っ込んでた私の大学でも、具材がのっかったままのピザトーストを縦向きのトースターに入れて具を落として焦がしていたアホがいました。

一般常識以前というか「ちょっと考えたらわかるのでは…?」「親御さんが教えるのにも限度があるのでは…?」というような、救いようのないことをしでかす人はどこにでもいます。

また、自閉症スペクトラム障害を持つ人は、ペーパーテストなどの定型的なタスクが非常に得意な一方、会話などの非定型業務に著しいストレスを感じることが指摘されています。

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(a)対人スキル、他者との協調性、適切な会話などの社会性
(b)感情や衝動性などのセルフコントロール
(c)金銭、時間、食事、睡眠などの日常生活やライフスタイルの管理
 などです。
 これに対して得意としているのは、
(a)コンピュータ、情報機器、機械類などの操作
(b)陶芸、美術、音楽などの創作技能
(c)ある種の専門的な分野の技能

まさか発達障害だったなんて 「困った人」と呼ばれつづけて

もしかすると「ペーパーテストはできるのに業務は全然できない、一般常識もない」という人の中にはこうした障害をもつ人もいるかもしれません。

こうした人を指して「勉強だけ出来ても役にたたない」と親戚のおじさんが言ってしまうことはありうるでしょう。

勉強で評価される社会が憎い

そして最後に「勉強できれば評価される社会が憎い」。これは当然、「勉強できずに評価されない自分がいる」こととの裏返しです。

私はこういう世の中で幸いに勉強への適性があり、そのおかげで非常によい人生を送ってきました。しかし彼らの気持ちもわかります。

私が就活でうんざりさせられたのが、嫌と言うほど「体育会系だった?」って聞かれることでした。

体育会系なら何なんだよ、と思っていましたが、要するに仕事をやりぬく根気やストレス耐性があるかを尋ねたかったのでしょう。そして体育会系は社会の多数派。

そんなこと言いだしたら私なんてそこらの体育会系よりよっぽどパワハラでしたよ、と皮肉を言いたくなります。

「あ~そうか、今の日本って体育会系が優遇されてるもんな」と思いました。でも今さら体育会系の部活に入りなおすこともできないし、なんとなく『憎い』な、と感じました。

きっと、勉強ができなくてコンプレックスを抱えている人も、私が体育会系中心の社会を憎むのと同じなんだろうな、と思います。

勉強ができる人が社会を構築するわけで、勉強できない人に不利になるのは当然です。これはちょうど財力や軍備力(腕力)にもの言わせて貴族が社会を構築していた絶対王政期と重なります。

そんな中で「持たない」者が「持つ」者へのルサンチマン(嫉妬)を発揮するのは当然でしょう。その余波がただたまたま、酒の席にいた高学歴者に対して向くことがある、という話です。

「勉強だけできても意味がない」は嫉妬だけではない

というわけで、実は「高学歴のことが憎いからこそ『勉強しかできない人は役に立たない』と言っている」なんて理由付けはあんまり正確ではないのです。

私のように高学歴者ながらも、勉強しかできない高学歴者を「ケッ!」と思っている人もいれば、身近で「使えない」高学歴者をたくさん見てきた人もいますし、嫉妬で言ってる人もいます。

次回、こういった発言に対してどのように対処するかを述べていきます。

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