子どもが生まれたのに、自分の子どもが可愛く感じられない親はどうするべきか

倫理学
この記事は約6分で読めます。

子どものことが可愛く感じられない親御さん、いそうなものだけど

子どもを「愛せない」親

※この記事は、現在「自分の子どもが可愛くないことに悩む親御さん」向けのものではありません。なぜなら私には子育ての経験がないからです。

でも、ないゆえに考えられることもあると思うし、もしかしたら未来の自分、あるいは同じ立場の人がこれを読んで何かを思うかもしれないので書きます。

世の中には「杞憂」という言葉があります。空が落ちてくることを心配した杞の国のある民の故事に由来します。私は今子どもがいないのですが、子どもができた時に「こうなるのではないか」と杞憂する類の事柄があります。

それが「子どもが可愛くなかったらどうするか」という問題。

ここでいう「可愛くない」というのは、顔とか性格が憎たらしいという意味ではありません。子どもの「存在」を愛せない、という意味です。

他人にしか見えない、怖い、気持ち悪い、不気味、うるさい…などなど。

世の中の大多数の親御さんはそうでないのかもしれません。

たとえば、私が子持ちの知人にこの悩みを話したところ「そんなことを考える人は結婚とかしない方がいい」「子どもも持たない方がいい」と、一蹴されてしまいました。ですよねえ。

いや、子どもは大好きなんですよ。子どもと接するのは。

何より姿かたちが可愛いですし(大人が言うとしゃれにならないな)、言動も大人とはやっぱり違ってて新鮮ですし、おひさまみたいないい匂いがしますし(いよいよヤバい)、何より昔の自分を思い出します。

でもですよ、いると思うんです。自分の子どもが生まれた時に「うわっ…えっ、これ、本当に自分の子なの?全然かわいくないし、愛せそうにない…」と思った人。

いや実際、そういう風に思う人もやはりいるものなんですね。

で万が一、私がそれを感じてしまったらどうすればいいのか、と考えてみました。

なぜ「子どもを愛せない」のか、なぜ「子どもを愛せる」のか

生化学的なプロセスを説明すると、たとえばお母さんは子どもを産んだのち、体内や脳内のホルモンの組成が急激に変化することがわかっています。

この変化は俗にいう「マタニティーブルー」とか「産後うつ」にもつながるのですが、一方で子どもへの愛情を促進する効果もあります。

例えば赤ちゃんがお乳をお母さんのおっぱいから直接飲むとき、その刺激に対してお母さんの脳内では「オキシトシン」(幸せホルモンの一種)が分泌されます。このホルモンの分泌はさらにお乳の分泌を促します。

そして、抱っこされたり見つめられたりした赤ちゃんの脳内でもオキシトシンが産生されます。子育てで触れ合うことを通じて、互いに幸福感を味わっていくのです。生物ってすごいですね。

さて一方、そういったホルモンの働きがたまたま弱かったのか、自分の子どもを不幸にも愛せない…という親御さんはいるでしょう。というか、こういったホルモンの分泌量が多くを決めてしまっているように思います(論文なんてありませんけどね)。自分でコントロールするのが難しいのです。

で、子どもを愛せない人は後々子どもとどうやって付き合っていったらよいのか?というのが、今回のテーマなのです。

この話をツイッターでしたところ、なかなか多様な意見をいただきました。それを紹介する前に、まず親御さんが囚われてしまっていると思われる「抑圧」についてお伝えします。

親は子どもを愛さなくてはならない、という思い込み

私が「子どもを愛せなかったらどうするのか」と思ったその前提には、私自身が「親は子どもを愛するのが普通だ・当然だ」と思い込んことが隠されています。

こうした暗黙の前提は非常に厄介で、ここを抑えておかなくては議論がかみ合いません。

まず、全ての現代的な常識を排して考えると、「親は子どもを愛するものだ」という前提は、意外にも薄い紙っぺら一枚程度のものでしかないとわかります。

なぜなら親子関係とは結局のところ、産んだ/産まれさせられたとか、血を分けている、という程度の事実によってしか担保されないからです。

客観的にそれを示す方法はほとんどありませんし、昔は一つもありませんでした。身売りされた子どもが確実に親に再会するのは絶望的でした。

江戸時代以前の農民たちは、子どもたちを労働力とするため、きわめて冷徹に間引きを行っていたことが指摘されています。

例えば一姫二太郎という単語は「1人目に女の子、2人目に男の子を育てるとよい」という子育て価値観ですが、これも元を辿れば「姉がいるとその下の子の生存率が高くなる」という経験則に由来しているようです。

子宝という概念が定着したのは、日本の農民に「家」という概念が定着したからだともいえます。

「親は子を愛するものだ」なんて自明な考えも、しょせんは時代や場所によって変化します。

普遍的なものではありません。それでも子どもはちゃんと立派に育ち、現在まで連綿と遺伝子を受け継いでいます。

ちなみに、片親がいない知人は「別にお母さんが今どうなってるとかどうでもいい、あんまり興味ない」と言っていたので、当事者としてそんな人が現にいることも伝えておきます。

私は「親は子を愛するな」と言いたいのではありませんよ。

「親は子どもを愛するべきだ」という思い込みが、誰かを不幸にしていませんか、ということです。

ちなみに私は愛されて育ったと自信を持って言えます。家族仲が非常によかったからです(そして今でも良好です)。多少は許せないこと、傷ついたことはありますが、きっとそれよりも満たされない環境にあった親子が多いでしょう。

それにしても、この類の思い込みを言語化しておくと、自分がいざ子どもを愛せないと感じた時、けっこう救われるような気がします。

親は子を愛さなくても立派に育つだろう

つまり、私が言いたいのは「もし親として子どもを(他の保護者が行っているように)愛せなくても、まあ問題はなかろう」ということです。

愛せないとまでは言わなくとも、自分の子どもが好きじゃない、という親はいるのか。

以前、私と議論した、しかも子育て経験がある方の中でも、これは意見が分かれています。

例えばおとさん氏(@otosan416)は以下のように述べておられます。

産まれた子どもを見てかわいい以外の感想がないという前置き付きですが、「ろくな人間にはならないだろう」との答え。

一方で麒麟猫(@nennekokirin)氏は

「子どもが好きじゃない親も少なくないだろう」と。

お二人とも子育てをされている、現役(?)の親御さんです。人の子の親であってもこのように意見が正反対に分かれることがあるのです。

問題がある派と問題がない(こともある)派が両方いるということで、これは結局「気の持ちよう」という、ありきたりな結論に帰着するのではないでしょうか。

ここでいう「気」とは「自分の子どもを愛する気持ち」ではなく「全力を尽くして愛せなくても、まあそれでいいかと開き直る気持ち」です。

そのエビデンスはあります。親は子どもを愛するものだ、という価値観がなかった時代でも、親を反面教師にしたり、蒸発にもかかわらず自分で食い扶持を稼いだりして立派に育った人々がいることです。

またそもそも、愛情をかけすぎたがゆえの虐待だってあるわけで(お受験競争とか)、愛情がなければまともな子は絶対にできないとか、愛情があったからまともになったということでもないでしょう。

昔から「可愛さあまって憎さ百倍」ともいいますしね。

愛情がなくたってあったってまともに育つ人もいれば、歪んでしまう人もいるのです。

というわけで、一体どうしていけばよいのかを、次の記事で書いていきます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました