被害者はいじめの謝罪を許せない・許さない自由があるけど、自分も別のいじめに加担していなかったか自省しよう

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許す自由は被害者にあるが、自分は本当にずっと「被害者」だったか

よくこんな言動を見かけます。

被害者が加害者を許さなかったからといって怒るなよ?許す自由は被害者のほうにあって、加害者が謝っても絶対に許せないことはあるからな?」

ま、それはそうですわね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BC

なぜ人間は「許されない」ことを恐れるか

そもそもなぜ人間は「許されない」ことを恐れるか。

それは根源的に、許す自由が自分ではなく相手にあることを知っているからです。自分ではコントロールできない相手の心の動きを恐れています。

そして「許さない」は基本的に不可逆的な感情なので、一生そのまま関係を終える絶望もあります。

その関係性が元々深かったほどショックは大きいでしょう。

逆に、電車で自分が足を踏んだ相手に「あんたが足を踏んできたの、私一生忘れないから!」と言われても困惑のほうが大きいでしょう。

自分と全く面識もない相手から憎まれても、別にどうでもいいんです。

許されないのが怖いのは、親しかった人を(自分がコントロールできないことで)失ってしまうからです。

許されないことを恐れすぎると、許すことを強要してしまう

でも、そうして許されないことを恐れすぎると、許すことを他人に強要してしまいます。実際は許すか許さないかなんて、悪事を受けた人しか決められないはずなのに。

外からお節介にも「もう終わったことは寛大に許そうよ~」と言っちゃうタイプですね。いるでしょ、こういう人。

しかし私は、彼らがいじめっ子だったためにいじめを擁護しているのだとは全く思いません。むしろ非常にピュアなのです。

誰かに許してもらえない…そんな残酷なことが現実にあるとは信じたくありませんからね。

現実を認められないピュアな人なんです。

え、私ですか?いじめっ子?いやいやとんでもない。

私はいじめられっ子だったので加害者を許す気はありません

人の感情をなめてもらっては困ります。受けた苦痛は全部、覚えています。

でも、こうした人間(許せ!と言ってくる人間)に「うるさい!許すかどうかは被害者しか決められないんだ!」とだけ言っていると、いつか痛い目を見るかもしれませんよ。

ほとんどの人はいじめたこともいじめられたこともあるのだが…

とても面白いデータがあります。

国立教育政策研究所が2013年8月5日に発表した調査で、首都圏のとある市の4600人の子どもにとったアンケートです。

「無視や陰口などのいじめを受けたことがある」児童、それからそういうものを「加えたことがある」児童の割合について、両者とも9割でした。

いじめられたことがあると答えたのは9割で、いじめたことがあると答えたのも9割だったのです。

このデータ、結構衝撃的じゃないですか?

我々はいじめについて語る時、いとも簡単に属性を分断して「いじめる側」と「いじめられる側」の二項対立で語ってしまいがちです。

でも実際は連続的で、流動的なのです。

当然この2つの質問は独立しており、最低でも8割の人間は「いじめたこともいじめられたこともある」のです。

なぜ子どもへのアンケートではこんな結果が出てるのに、大人になると「いじめられてました!辛かったです」という人しか名乗り出てこないのか。

もちろん「いじめちゃいました」という人は叩かれるのが怖くて書かないとか、あるいはいじめるような知能なのでネットに出てこないとか色々説はあると思います。

でも私は案外「人間は一般に、被害者意識だけを肥大化させるから」だと思っています。これは私もあなたもみんな同じです。

自分がいじめられた経験は覚えているのに

被害者意識が強いとなると、当然「自分がしたことは覚えてないけど、されたことは覚えてる」という奇妙な現象が起きます。これは「電車の中で足を踏まれたことはあるけど、踏んだことってないな…」と思うのと同じです。

自分がされたことだけ、ちゃ~んと覚えています。脳は賢いですね。

でもこれを前提にものを考えると、恐ろしい可能性も浮かび上がってきますよね。

「いじめられた!辛いよぉ~」と言いながら、自分もどこかで誰かのいじめに加担していた、ということをすっかり忘れている、という可能性。

つまり、誰しも許すかどうか決める立場にずっといるわけではないのだと気づく必要があります。自分も含めて。

偉そうにネットで「いじめられたことがある奴だけが許す権利を持ってる!許されると思うなよ!!」と言い放ってるうちはまだまだです。そんなの、当たり前の話ですから。

むしろそこから一歩進んで「この原理を社会全員に適用すると、もしかして自分も『許されない』可能性があるんじゃないか?」と、そこまで考えてみたい。

自分だけが許す権利をもつわけではない

さて、それでは「自分だけが許す権利を持つわけではない」と気付けないとどうなるでしょう。

自分自身の悪事を暴かれて「謝れよ」と言われて「ごめんなさい、私もあなたをいじめてしまってました」と認められる、なんて都合のよいことはありません

むしろこう言ってしまうでしょう。

「許してくれ」「そんなことで俺を恨むな!」と。

あれだけ「許されると思うな!」と主張してきた人間が、自分の悪事を指摘されると「いやそれは…」「もうそんな前のことはいいだろ、許してくれ」などと言ってしまう。

そんな現象が起きてしまうでしょう。

重ね重ねになりますが、いじめもいじめられも、たいていみんな、両方経験します。

自分だけが許す権利を持っていると思ったら大間違いです。

「許されなくても加害者は我慢しろ!それだけのことをしてきた」と言えるのは、同じく自分自身も知らないうちに加害者になっていることを了承し、「許されない」ことの残酷さを知っている人だけです。

誰かを踏んづけたあなたの足のせいで、その誰かから恨まれることを覚悟している人だけです。

許す許さないの話の前に、まず自分を顧みよう

それでもなおアイツのことを許せない、という方。

わかります、辛かったですよね、その気持ち、苦労、本当にお察しします。

私の記事を読んでショックを受けたり、激高してたりする人がいれば言いたいのですが、私は「許せ」とは誰も言ってません。

「いつも自分が許す側であると思わない方が、全体にとってはよい」ということです。

適度に自省しましょう、という話です。

さあて、今日もあいつらを見返すために、幸せになるための方法を探しますか。

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