お金をどう使うか、という問題
以前、お金とは何か、という記事を書きました。
これに寄せて今度は「お金とどう付き合うか」という問題を考えてみたいと思います。
この疑問を思いついたのは、スーパーマーケットで、あることをしていた男の子を見たからです。
5歳ぐらいの男の子が「蒲焼さん太郎」という10円のお菓子を1枚、大事に大事に握りしめて走っていました。
10円でこんなに彼は満足しようとしているのに、翻ってじゃあ自分はどうなんだ、と思ったからです。
遠足のおやつは300円まで、の大きさ
さて、これに関連した問題として、遠足のおやつは300円まで!!という有名な問題がありまして、実はこの決まり文句は「お金の価値とは一体何なのか」を考える上でぴったりです。

あなた(大人)が300円と聞くと、いったいどれぐらいの大きさを想像するでしょうか。昼ご飯で300円はちょっと安いぐらいのものですよね。社食(学食)の具なしカレーが食べられるかどうか。
しかし小学生にとってはどうでしょう、思い出してみてください。
どの駄菓子がいいか、うなりながら考えていませんでしたか?100円を3つ買う子もいれば10円のものを30個買う子もいたはず。
制限のある中でお金をできるだけ最大限、有効に使うことを皆考えていました。
300円という数字は、小学生にとってはとてもとても大きかったのですが、お金を稼ぐようになると忘れてしまいます。
お金はけっして万能ではない、なぜなら幸せを買えないから
ここに我々は一つの法則、あるいは経験則を見出すことができます。
「お金は万能ではない」という法則です。
ではお金には何ができて、何ができないのか。
できるのは当然「何かのモノ、サービスを買う」ということ。これは自明ですね。
一方で、できないこともあります。
それは「幸せを買う」こと。
お金を使って直接、抽象的な幸せを買うことはできません。ですからお金がいくらあっても満ち足りない人がいたりします。そういう人はお酒を女性に飲ませるパーティーを開いたり、ツイッターでバラまいたりします。
そんな人がいる一方、わずか300円でウキウキしながらお菓子を選ぶ小学生もいます。世の中本当に、不思議ですよね。
しかし、それを不思議だと思ってしまうこと自体が、もう我々大人がお金の悪しき価値観に染まってしまったことの証左だといえるでしょう。
お金の価値がものの価値を決める、という錯覚
なぜ「小学生は300円なんかで幸せになれるのか?」とあなたは思ってしまうのか。
それは「お金の価値は、ものの本質的な価値と一致する」という錯覚があるためです。
わかりやすく言うと「子どもが拾ってくるドングリは大人にとっては1円の価値もないけど、子どもにとっては宝物」だったりするのです。
そういうとき我々大人は「そんな汚いもの、捨ててきなさい!!」なんて言いがちではあります。
でもよく考えれば、まだお金を稼いでいない子どもは「お金」という現世利益的価値観に染まり切っていません。冒頭で紹介した私のツイートは、まさにそれについて述べたものです。
大人からすれば「たった10円なんて!もっと高いものを買えばいいのに」と思ってしまうそれは、子どもからすれば「今一番欲しいお菓子がたまたま10円だった」に過ぎず、この違いには敏感でなくてはなりません。
さもなくば、やたら高いものを子どもに買い与えて金銭感覚をめちゃくちゃにする可能性があるからです。
お金で幸せを買うことはできないのに、我々は「高いものを買うと幸せになれる」「稼いだほうが幸せである」という錯覚を覚えてしまうのです。実際、小学生のときは300円で満足していたのに。
主観的な幸福にコミットするなら、お金はどう使うのがよいか
この話は我々大人にもいえることです。子どもの300円おやつ問題から言えることがあります。
もし主観的な幸福を追求するなら、我々はお金をどう使うのがよいのでしょうか。
まず一つ、遠足の例から言えるのは「自分で選ぶ」のが大事ということでしょう。よく考えて比較・選択した商品には愛着がわきますし、比較すること自体にうきうき感があります(もちろん、義務で買わなければならないものもありますけどね…)。
そしてもう一つ「状況に応じた適切な額を使う」ということ。
ここでいう「状況」とは以下をさします。
- ライフステージ
- 収入
- 貯蓄額
例えば子どもにとって1万円というお金は「なんか、めちゃくちゃ大きいことはわかる」ぐらいの偉大さです。しかし、遠足にそれだけのお菓子を持っていくことは適切ではありませんし、それほど多くのものは求められません。
むしろ300円という絶妙な上限設定こそ、遠足のワクワク感を上げてくれます。もし上限がなければ「高級なお菓子を買った人間が勝利する」という、非常に残酷な結末が子どもを待つからです。
今思えば「遠足のおやつは300円」は、比較選択することの喜びや、お菓子選びのセンス、他の子どもとの駆け引きを学ばせてくれる格好の材料だったのですね。
また、同じことは逆の例でも言えます。大学生の時に積立NISAを始めるのは一つの案でしょうけど、私はこれに反対しています。
積立NISAで大学生が積み立てられる額なんてたかが知れてるからです。社会人になれば何倍ものお金を瞬時に稼ぎます。
むしろそれよりかは、友達と山口県に行ってフグを食べるとか、長野に行ってスキーを楽しむとか、そういう「今しかできないお金の使い方」をするのがよいと思います。
社会人になって稼げばフグなんてすぐに食べられるでしょう。でも本当にそれでいいのか?
大学生という時期だからこそ、フグの高級さ(一皿2万とかしますし)と味に感動できるのです。
大人が蒲焼さん太郎を大人買いして30枚同時食べをするのより(してみたいけど)、大事そうに握りしめて食べる子どもの1枚蒲焼さん太郎のほうが、美味しいのです。
当然、今いくらの貯蓄があるのかにもよってくるでしょう。宵越しの金は持たぬは江戸っ子といいますが、現代で一円も貯蓄がないのはちょっと心もとない。
かといって、20代後半で1000万が溜まるほどケチケチするのももったいない。
お金は使ってなんぼですから、最低限生活できるお金は貯蓄しておいて、使いたいと思った時にはぱっと使う、これが一番「主観的な幸福」にコミットしやすい方法でしょう。
お金で幸せはなかなか買えませんが、適切に使うことで多くの幸せを掴むことはできます。
皆さんもちゃっちゃと稼いで、じゃんじゃか使いましょう!
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