選挙は民主主義の一つの方法
理性的なひろゆきは政治家になっても活躍できない
突然ですが、ひろゆき氏が煽り(「そういう人って頭が悪いと思うんですよね」「なんで~~だと思うのかわからないんですよね」という言動)に長けているのは割と広く受け入れられていることだと思います。
彼を絶対神のように崇めだす人がAbema TVのYouTubeコメント欄には現れますが、その実はといえば相手を言い方や態度で煽って、ボロを出させ、そこに突っ込んでいるだけ。
それが「生産的な」議論だとはとても思えません。相手の怒りを引き出すなんて、日常じゃぜったいやっちゃいけないこと。
……というと「じゃあ感情でぶつかるのがいい議論なのか!」とロクに文章も読めない輩が追突事故をしてきそうなのでおいゴルァ!免許持ってんのか!免許見せろ!
彼はまず議論について「これが生産的だ」とか「これで日本が変わる」とは思っていません。
彼がやっているのはディベートであり、特にそれで何かを決めようとか、こうあってほしいというのはないでしょう。
週2ペースで必ず彼の動画を見る私が言うのだから、これは間違いない。
彼みたいな「理性的な人」が政治家になっても活躍できません。
そこに正義はないからです。
つねに第三者として意見を言うのだから、国の舵取りを行い、時に弱者を切り捨てなくてはならないような当事者にはなれない。
議論の小手先は確かにうまいけれど、理性的というよりは刹那的。
でもたぶん彼はそれでいいと思っているんでしょう。
そもそも日本ではなくフランスに暮らしてるんだし、あまりナショナリズムというものに関心がないのかもしれません(それ自体は私は善とも悪とも思わない…国が好きでも、国民性や制度が好きになれないことはあるだろう)。

ひろゆき氏の民主主義への誤解
だからか、ひろゆき氏は民主主義のなんたるかについて全く理解していません。
「民主主義なんだから選挙で決めたらいいんじゃないですか」
「投票で決めたことなら少数派は多数派にしたがうのがルールですよね、それが民主主義ですよね」
とありがちな誤解をしてしまっています。こちらの動画です。
少数派が多数派に従わない(従いたくないと表明できる)ような民主主義の形態はありうるし、そこに法律の遵守精神は関係がありません。
つまり「法律を真面目に守っていてはデモなんてできない」場合には、主張を硬く硬く述べ続けること、態度にすることが法律よりも優先されます。
香港のデモなどまさにそうでした(中国は民主主義ではないけれども、況や共産主義をや)。
もちろん、守らないことによる民衆からの冷たい目線はその問題とは別に出てきます。
民衆からの支持を得たい、でも法律は守っていられない、その不安定なせめぎ合いの中に広い意味での、つまり暴力や焼身自殺さえもときに含む壮観な言論空間が生まれます。
熱いエネルギーを伴って社会の潮流を変える小さなうねりができ、やがて大河となって万物を飲み込むことがあります。
その対象は時に「国」にさえもなり、それを我々は「革命」と呼びます。
そう定義すればオウム真理教の地下鉄サリン事件も同じだろ!いい加減にしろ!と言われそうですが、それについてはまた別の記事で語りたいと思います。
日本では公務員ストが禁止されてますが、例えば学校教諭たちが何かに対して不満を抱いたのなら躊躇せずストを起こすことができるし、ましてやその正当性が民衆から支持を受ければ、法律さえも変えられます。
スト禁止という法律に反対するためにストを行うことだってできます(やった歴史はないだろうけども)。
現にひろゆき氏いわくフランスでは週2ペースでストが起こってます。
鉄道会社の職員が給料もらいすぎという批判を受け、国が職員の給料を下げた。するとそれに猛反発し、週2ペースでスト。
みんなは今度航空会社を使うようになったので、今度は航空会社の社員が(うちらがいないと仕事できんやろな…せや、給料上げろってストしたろ!)ストを決行。
法律を破ってまで行動を起こすかどうかは問題ではなく、そういった力を民衆が広く信じられることが民主主義の本質なのです。
選挙とは民主主義の一つの入り口に過ぎません。
多数決で決まったことに盲従せよという意見は、体制側が述べる都合の良い言論です。
であるからこそ、彼の「今の日本のデモには日本を変える力がない」には同意しかありません。デモを誤解している人が多すぎるのです。
多数決や選挙に従順であれさもなくば死だ、という論調によって国民は骨抜きにされてしまった。
形式だけ美しく整えられた民主主義をGHQに与えられ、それをしゃぶってさえいれば満足する未熟児になり果てた。
平和や民主的という耳あたりのよい言葉を盲信し続け、とうとうそれらの本当の意味も忘れてしまったのです。
政治について語れない国はよい国なのか
日本には「政治と野球の話はするな」という箴言があります。
これは本来「対立しがちな話題について日常で触れると良い結果を招かない」という意味です。
同意しますが、その意味を履き違えている人が多いと思います。
政治の話を衆目でしないことは「余計な対立を避けるため」であって、けっして「無関心であっていい」とか「体制側につかなければならない」のではありません。
例えば私がこんなに熱心に政治について語るのはこのブログや信頼する友人との間でだけ。
同僚の前でこんな話をしたら直ちに白眼視されることがわかっています。
それでも私は私や私の親愛なる者の行方を決める政治に参画したいと願い、こうやって意見を発しています。
よく「デモを起こすなんて治安が悪い」「日本人は民度が高いからデモが起きない」と述べる人がいます。
ほとんど対比のようにして「それにしても韓国人は、いつも火病(ファビョ)っているからあんなにデモを起こすのだ、感情が法律を捻じ曲げるのだ」と、
他人の国の歴史や政治観さえも知ろうとせずに語ってみせます。
なにせ私が昔そうだったのだから。
でも、そんなのは間違っています。
デモが起こるのは民度が低いからではありません、自身が政に間接的にでも参画し、自分の意見が自分の国の行方を決めるのだという確信があるからです。
時に法律さえ破るのだという覚悟と自信があるからです。
それは言い換えれば健全な民主主義が果たされているからです。
「政治はネットや居間や居酒屋でひそひそと語るものだ、道端で叫んではいけないし、ましてや共同体構成員(会社、学校など)の前で述べるなんて信じられない」と言いだす人達はそれをわかっていません。
そんなの北朝鮮、中国、シンガポールと同じ。
言論空間が担保されない代わりに堅牢な幸福の箱に閉じ込められた民草に成り果てることが本当に「幸福」なのか、我々は歴史からよく考えなくてはなりません。
武器やペンを手に取り、体制側つまり暴力装置の行使者・統制者に反抗しなくてはなりません。
「民意を反映させる」とは選挙に応援者を勝たせることだけを意味せず、
その後も徹底的に監視していくこと、
議論によってみんなを説得し、全員が幸福になれるような方法を模索すること
をも指します。
批判なき政治などありえない
そういう意味で言えば、「盲従せよ」と言う輩が考える「民主主義の健全性」とは一時期話題になった「批判なき政治」というスローガン通りなのでしょう。
よくするための議論やスト、デモは全て「批判」。
自分と反対のことを唱える人は一生敵であり、分かり合えることなんてない、そう思っているのかもしれません。
私は民主主義に「穏健」や「従順」を求めるのは全くおかしいと思っています。
行動や議論によって周りの意見を変えることに、民主主義の可能性を見出している派です。
それはかつて自分がネトウヨ側にいて、
気恥ずかしくなるような錯誤した愛国精神とやらをぶん回し、中国や韓国を己のショーケースに並びたてられた偏見によって大上段から侮蔑して見せていたことへの反動、反骨精神なのかもしれません。
でも何にせよ、血気盛んに気炎を吐いて意見を闊達させることが(制度上)できるという点で、この国を愛していることには変わりありません。
その面で私の認識が変わったことはなく、所属する分類が、思想が変わっただけです。
右だろうが左だろうが真ん中だろうが、生まれた国を最初から嫌いでありたいと願い続ける人間などいないのだと、私は信じています。
民主主義についてはこちらで書いています。
コメント