全然読まずにコメントする人の心理、そして信用されない炎上マンの言論

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本文を読まずにコメントする人の心理

何回も何回も何回も何回も何回も同じ質問をするな!!!!!!!!!!!..
何回も何回も何回も何回も何回も同じ質問をするな!!!!!!!!!!!!!読んでないって言ってるだろ!!!!!!!!!!!!!!!!本…

のコメント欄がこれ。

『何回も何回も何回も何回も何回も同じ質問をするな!!!!!!!!!!!..』へのコメント
この記事に対して63件のコメントがあります。人気のあるコメントは「何回も何回もってずっと繰り返して輪っかにしたらラーメンの丼になりそう」、「パリは燃えているって言ってるだろ!アンドロイドは電気羊の夢を見ない!山は死ぬ!海も死ぬ!ねないこは私だ!」、「未読の本に栞を挟む妖怪」、「ドリカム「何度でも〜何度でも〜」」などです...

相変わらず傷の舐めあいをしてる人達がいますね……。

うんまあ実際そうだよね。別に読まずにコメントしてもいい。

この方が偉大なのはこの後。「おれ自身がそうするときは、他人にバカにされることは一定以上甘受しようとは思ってる」。この姿勢ほんとに大事。

私は「他人を批判するならちゃんと他人が書いたものを読むべきだ」と思っていまして今までの記事でも再三主張してきたのですが、長文読めない人が意見言うとマジでどうしようもないんですよ。

客観性以前の話でそもそも言論にならない。

攻撃性のある棘を無理やり毒糸で結んだみたいな言論モドキを振り回すヤベエ奴が爆誕して、望まれないまま言論空間に穢れを撒き散らす。

なんJとか5chによくいるアレですよね。接近も接触も敵対もしたくない類の。

でも時間や意志力という資源は人々に1日ずつ配分されていて、全文を読むチャンスがないなんてよくあります。

そんな状況でも批判することを我々は迫られがちだし、自発的にやってしまいがちです。それで基本的に問題はないんです。

言論についていっちょ噛みしたくなることはあります。

本来ならその人が書いた記事を全て読んだうえで批判するのが理想ですし、論文はそういう勢いで執筆される必要がある。

でもネットは何より「自由さ」がウリなので、それを強要しようとは思いません。私もそこまで厳しくはありません。

ただ、それをするなら反論も受け付けようぜ、という。

言論者からの逆批判を甘受する寛大さが必要

的確な批判は的確な読解のもとに生まれます。

統計学でもデータ数が多い方がより正確な「予言」ができますがそれと同じで、切り取られた言論から生産的な学習は期待できないと考えてよいでしょう。

ですから、言論者から「それは建設的な指摘ではないよ」と逆批判されることを、ある程度は甘んじなければならない

「お前のそれはさ、俺の言動を俺の意図しない形で切り取って生まれたものだよね」

「はい」

「お前が批判した部分はここに書いてっから、ちゃんと読んで」

「はい。すみませんでした」

ここに反論のスキはありませんね。実際、全部読んでないのは事実なので、そこは認める必要があります。

建設的な議論をしようと思えば最低限この姿勢は欠かせません。

そこで開き直って「読んでねえよバーカ!!読むわけねえだろ!」いえばそれは議論、交渉の破綻を意味します。

相手からすればそんなことを突然口走る奴とは会話する意味がないので、私ならIPブロックしてスルー…でOK…アンチは嫉妬でアンチコメしてるから…

文脈から切り取ったことばは空虚になる

じゃあ、言論者からの再反論に対して「いやそれは誤解を招く書き方ですよ?」と言うのはどうか?

これはギリギリアウトだと思ってます。

自分が誤解しないように最大限気を付けたうえでその感想なら当然しょうがないですが、元言論者も本来、自分の意見を切り取られて都合よく叩かれることをよしとはしません。

「そりゃあ切り取ったお前らが悪いわ」という話になります。

政治家憎しで政治家の発言の一部を切り取って批判することは日々繰り広げられますが、ことばなんてのは文脈を離れれば空虚で虚構的な発音の連結にほかならず、やはり文脈は無視されるべきではありません

そこらへんは語用論に詳しいので書籍を各自……。

極端な話「生活保護はセーフティネットの観点から見れば絶対に保持しなければならない最後の砦と考えますが、生活保護なんてなくしてしまえとおっしゃる市民もいる」という政治家の発言を

「生活保護なんてなくしてしまえ」だけ切り取って批判することは可能

ですよね?

それが非現実的かってのはこの際どうでもよくて、そういった空虚な言葉遊びが可能なのが言語の可能性、そして危うさなのです。

我々がこの危険な鉄骨渡りをしていく限り、誤解や誤読は世の砂浜の砂の数に匹敵するほど多く、意思疎通可能性について根気強く議論することが求められます。

バーバルが常態のインターネット言論空間では尚のこと、です。

言いっぱなしで顧みない姿勢は信用を失うのだが

仮に日常生活で接する人達に全く一貫性のない言動をするなら、すぐに信用を無くして終わりだと思うんです。

でもインターネットならそれが可能です。

匿名空間では大統領にもオリンピック選手にも、ノーベル賞受賞者にでもなれます。

多少IDがあろうがなかろうが関係なく、すぐに別のものを取り直せば済む話です。その万能感を自分の有能さと誤解してはいけない気がします。

ブログが違うのはこの点だと考えています。

基本的に一度作ったら少なくとも1000文字レベルの文章をコンスタントに書く必要があり、多少その意見の中に自分の「芯」みたいなものが現れます。

誰が文章を書いたとしてもだいたいそうなるもので、極端なアフィリエイトばかりやってない限りはそうでしょう。

一貫性が求められるので、言いっぱなしがよくないことを感じます。

芯を乗り換えるならその理由まで説明しなければならない。

言いっぱなしで終わらない。

やっぱりその人の書いたブログの記事を50個も読んでいれば、どんなふうに感情を(悪戦苦闘しながら)文章にしようとしているのかがわかります。

まあ……1ツイート以上の文章を読めず、脊髄と言語野だけで言論ゴッコをしている人たちにはわからないでしょうけどね。

言いっぱなしと一貫性の違い

言いっぱなしと一貫性は違います。一貫性というのは変化をも含めた論理体系で、変化のシーケンスを説明することができる「武器」です。

例えば新型コロナウイルスの問題で、ツイッターの飛沫アカウントが

「ほら見ろ、科学者ってのはこんな風に一朝一夕で自分の思想を変えるんだ!やっぱり科学は信用ならない!」

と叫んでいるのを見ました。言いっぱなしと一貫性の違いがわかってない代表ですよね。

「一貫性わかってない株式会社」の代表取締役会長に任命しましょうか。

科学は「変化」を常態とします。

今わかっている限り科学に関係する万人が支持しているとされる理論が今の科学を支える理論であり、当然ながら科学には「議論が分かれる」分野も存在しますし、それが健全性の高い言論空間です。

言い切ってしまうなら科学とは「明日はドッチだ!チキチキ、言論変化バトル!」なんです。説得力が高いほうの意見を支持すると決めているのです。

その際、「なぜ意見を乗り換えるのか」まで説明しますから、一貫性があります。

ブログだってまさにそれです。

「自分は昔こう思っていたけど、これってよく考えたら間違ってたわ、やっぱこっちかもしれへんわ、確信がないわ」という「心変わり」を文章にすることができます。

ツイッターやブックマークなんてどうですか?今日と昨日で全く逆のことを言っていてそれを気に掛ける人はいます?

いないですよ、100文字そこらの言論に価値なんてないですもん。いるとしたら対象が芸能人って感じですね。

というわけでみんなもブログ、書こう!(提案)

コメント

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