ケースバイケースと言いたがる人の心理
例えばだけど「死刑賛成?反対?」は「場合による」って答えときゃまあ及第点だし、「こういう友人許せる?許せない?」って聞かれたら「友人による」って答えれば合格だし。そういうことだよねって話。
それで、だから何なんですか?「正しい」から何なんですか?
そんな感じの話です。

冷笑と相対化に伍した者が辿る末路はいつも悲惨だ
5chとかなんJおんJでは毎日のように議論系スレッドが建設され、そしてほとんどのスレッドがバベルの塔と化しているわけですが、その理由はいくつかあって、まずもって結論ありきで語っててデータとか事実が全然出てこないから、そして、
そもそもどちらにも味方せず、山頂に陣取ってずっと動かない相対主義者がいるからだと思うんです。相対主義者はここでも書きました。
前者は別にいいんです、自分もそういうとこあるし人間は偏見という主観なしには(主観という偏見なしには)世界を観測できないですから。後者でしょ、ヤバいのは。
そうやって洞ヶ峠を決め込んで日和見山に座り込んで呑気におにぎり食べてるんです。
「で、オマエはどう思うのサ?」って聞かれたらこう答える。
「人によるだろ」「ケースバイケースじゃね」。
なるほどおにぎりを咀嚼しながらでも発することができる簡潔で便利で絹のような言葉ですよね~「人による」って。それ言ってればなんだって正しくなるんだから。
ただですね、ケースバイケースとか人によるってのはこれでもかってぐらい議論を尽くして全員が力尽きた後にようやく、その沈黙に水滴を落とすかのように誰かが発して初めて意味があるものなんですよ。
駄目だこりゃどうしても同意には至れない、この2つのケースを結び付ける共通項が存在しないと全員が諒解してようやく語用論で使用されることを認められる…そのぐらいのもんなんです。
相対主義は便利なものではない
相対主義はそんなに便利ではありません。
最初から議論は無意味だ、こんなものは始まる前から終わってると決めつけて錦の御旗のように掲げるものではない。相対主義はそこまで便利ではない。
自称・相対主義者(ケースバイケースとかすぐ言いだす人)は、最初から意見交換を切り捨てて合意なんて得ようとしないばかりか、自分の意見さえ表明せず佇んでるだけ。
喧々諤々の議論の傍でただくっちゃくっちゃとご飯を噛みながら、ぶくぶく肥えた肥満児のように自己顕示欲のゼーニクを蓄え、いざ意見を求められたら米粒飛ばして「人によるだろ」「ケースバイケースだろ」。
呆れて物も言えない両者を見て勝ち誇ったような顔で「ふん、また論破してしまった」。どこのスレとは言いません、毎日のように匿名掲示板で起こっていることです。
こんなことを会社の面接のGD(グループディスカッション)でやってみてくださいよ。
きっと「協調性×」「人間性×」「論理性×」がつくでしょう。
一体何が足りんかったんでしょうかね~不思議ですね~と化す前に、「ケースバイケース」の問題点を探っていきましょう。
絶対的な正しさはその議論の意味を担保しない
私が敬愛する某大物YouTuberが以下の名言を発しました。累計500万回に達したものすごい人です。ツイッターのトレンドで世界1位を獲得したこともあります。
彼はコーヒーゼリーについてのレビューで
「自分の中では、コーヒーゼリー紹介しました。前の食品レビューで。このしょ、コーヒーゼリーと多分違うコーヒーゼリーだと思います。かもしくは同じコーヒーゼリーか。どっちかです」
syamu_game EMIAL:珈琲ゼリーを食べてみた!
つまり「このコーヒーゼリーは自分が以前紹介したものか、あるいはそうでない別のコーヒーゼリーです」と言っています。
この文章の正しさについては誰もが認めるところでしょう。なぜなら基本万物は「Aである」か「Aでない」のどちらかにしか分類されないからです。
そのAが何であれ、基本はその2つだけです。これを論理学では「排中律」といいます。

そのどちらでもない真ん「中」のものは「排」されるというルール(「律」)だからそう呼ばれます。
これが名言になっているのは、当然「面白い」からです。でもよく考えれば当たり前の事実だし、正しいことを言っている。
正しいけど、おかしい。どこか面白い。
そのおかしさの原因はたぶんこうなんですよね。
なんでレビューでそんな当たり前のこと言うの?
これが論理学の授業なら排中律としてこれほど適切な例示はなく、きっと彼は記号論理学の権威と化していたでしょう。しかし場面は日常です。そもそも排中律なんて自明なものを振り回す意味なんてありません。
ケースバイケースや「人による」も私にとってみればこれと同じです。当たり前で、当たり前すぎてそこで表明することが不適切なのです。
正しさという面でみればどんな意見よりも正しく、冷徹な論理の最頂点に位置しますが、それゆえ他人の意見を簡単に壊せて、言論の表明意欲を極限まで削いでしまう。
ケースバイケースは中身のない果実だ
私は排中律や、排中律が記号論理学の中で1つの公理のようになっていることを否定しません。
記号論理学を学んだ方ならわかりますが、ゴルディアスの結び目になった部分に適用して問題を一刀両断するのはどうにも魅力的です。
しかし言語を曖昧なままにぶん回す日常の議論において、排中律という自明で厄介で煙に巻くようなものを持ち出す気まではありません。
他人の言論を嘲笑して冷笑して侮蔑して、自分だけ正しい気でいる言論マンにそんな深い思考があるとも思えませんが。
人によるとかケースバイケースとは、たとえ正しくても何も問題が解決しない意見です。
それはちょうど空っぽのスイカと同じで、外から見たら大きくて魅力的で、いかにもミツをその肥えた丸い果実の中に蓄えていそうなのに、切ってみたら皮しかない…そんな虚ろさを感じさせるもの。
無意味、ナンセンスの極致。これが文学なら「虚無文学」なんて持て囃されていたかもしれませんが。
「どう思う?」と参画を求められたのなら、素直に「こう思う」と言えばよいはず。それができないのは意見がないからであり、無思考でスマホから与えられるがままに日常を咀嚼しているからだ、と私は感じます。
数十年生きてきたであろう大人が真顔で「人によるだろ」と書き込むその姿を、私はどうしても想像できない。そんな大人がいることが。たぶんそういう人はそれが相対主義でなくてもいいのでしょう。
ケースバイケースや人による、よりももっと「他人を論破するのに適切な」言論があればそちらに寄っていきます。
これがもたらす弊害が「感情を無視する」こと、でしょうか。世の中が全て論理で回っている、正論を投げつければすべて解決すると思い込む現象。
例えば「感情論抜きで論破できる奴いる?」なんてその例でしょう。
感情論抜きで論破できる奴いる?
人間から感情を抜いたらただの泥人形でしかないことがわかっているはずなのに、他人よりも上に立ってマウンティングしたいがために、それに蓋をして「感情論抜きで」とか言っちゃう。
もしそれが中学生なら笑って「そうだね、じゃあ私生徒会行くね。」と無視できますけど、大学生以上の大人が自慢げにそんなスレを建てているとしたら。
それ以上に悲惨で哀れで救いようがない事象もそうそうありません。
「じゃあもうお前は生きるなよ、お前が生きることによる生産性は論理的に何もないよ」って言っちゃいそうですよね。感情があるからこそ人は人らしく生きられるのです。
論理は正義に先行しません。正義を論ずるときに感情の問題は避けて通れず、論理だけでは解決できないのです。排中律でどうにかできるほど、現実の問題は甘くない。
あっ、これを読んで反論しようとした方は安心してください。
本当のケースバイケース万能論者はこれを読んでもなお「まあこいつの考えだから…これも一つの考えにすぎないから…ケースバイケースだから…」と安心できるはずなので、「ムッ!」と来た時点でセーフティだと思ってます。
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