性格が悪い人を軽蔑してよいのだろうか
性格が悪い人はどこにでもいると思います。例えば職場にもいますよね。
そういう人を軽蔑して悪口を叩くのって、本当にいいんでしょうか?という話です。
よいに決まってるだろ!とお考えの皆さんも、これを読むとちょっとだけ考えが変わるかもしれませんよ。ちょっとだけね。

他人を助けたいという本能は誰にでもある
さて、あなたは街で松葉杖のひとを見かけました。その人が階段を下りるのに手間取っていたとします。もし時間があれば、この人を手伝うかもしれません。
手伝うのは当然、放っておけないからですよね。お金が欲しいという理由ではありません。自分の時間を割いてまで見知らぬ他人を助けるのは、あなたの中の善の意識が行動を促すからです。
私は、人間には「困っている人がいたら助けてあげる」という本能があると思っています。幼い子どもに街中で助けられた経験があるからです。もちろんその子の『しつけ』が良かっただけかもしれませんが。
しかし、この本能があるからこそ、人間は人間として、つまり非力な存在としてサバンナや砂漠やジャングルや南極で生きてこられたのでしょう。
自分が他人を助ける環境にあれば、他人もまた自分を助けてくれます。
そうしたお互い様の精神を信じられる人間たちが生き延びたことで、我々現代人の脳内に「他人お助け機能」がインストールされたのかもしれません。
バックパッカーをしていた人のブログなんかを読むと、疲れ果てて顔も憔悴した若者に、村の人間が近づいてきて水や食べ物をくれ、さらに無料で泊めてくれた…なんて涙の出そうな話が書いてあります。旅先での善意は一生忘れられない経験になりますが、これもまた人の善がなす美しいエピソードです。
さてところで、こうした「他人を助けたくなる衝動」はどんな時に発揮されるのか考えてみましょう。少しずつ雲行きが怪しくなってきます。今はまだ曇り空といったところですが。
どんな時に人々は他人を助けたくなるのでしょうか。
実のところ、私はその答えを一つ持っています。「困っていることが見た目でわかる場合」です。
小銭を落としたとか白杖を持ってるとかあたふたしてるとか泣いてるとか眉間にしわがよってるとか、まあ、そういう場合。
ではその逆に、困っていることがわからない場合はどうでしょう。考えてみるとなかなか難しい。
困っていると明らかにわかるケースでさえ声掛けをためらうことがあるのに、ましてや言葉にも態度にも出さずに悩んでいる人を「助けましょうか?」などとは言えないものです。
そして、私が問題にしたいのはまさにそのケースなのです。
精神障碍者は助けられにくいという現状がある
私の友人に、かつてうつ病を患っていた人がいました。
うつ病にも色々いて、「困っている時はそっと話を聞いてほしい」人もいますし、逆に「放っておいてくれるとありがたい」人もいます。
共通するのは一つで、彼らがうつ病であるとわかるには、それなりの訓練を必要とする、という点です。
精神科医になれるぐらいの訓練を積まなければなりません。
訓練を積んでもなお疑わしいケースもありますし、どこからどこまでが健全な人間の心なのか判断できません。グラデーションの問題なのですから。
つまり、精神障害は身体障害よりも「困っていることが判別しづらい」のです。
身体障害なら「階段を登れない」だけでそれとわかるのに、精神障害はわからない。
生き苦しさを感じつつも、障害を自覚していない人もいます(「自分がアスペルガー症候群だとわかってほっとした」と告白する人さえいます)。
助けを必要としているかどうかはともかく、もし心に何かを患っている人がいたとして、その人を「助けよう」と思うまでが、けっこう遠いんですね。
攻撃性をまとう精神障害ならなおさら「助けたくならない」
そしてこの考えは「攻撃的な性格になる」や「他人を疑いだす」類の精神障害だとさらに顕著になります。後者の代表例が統合失調症でしょう。
幻聴や幻覚にさいなまれ続けると、親しかった友人との付き合いさえ疎遠になっていきます。友人として話を聞く側になると壮絶でしょう。
仲の良かった友達が「監視をやめろ」「思考を盗聴するな」「お前のもくろみは見えてる」と言いだしたら(そういった症状のない患者も当然いることは強調しておきます)。
私の知人も「自分のトイレのにおいのせいで町の葉っぱが全部枯れてしまった」と泣きながら話していました。冬になったから枯れてるだけなのに。
もしここに「お前が枯らしたんだろう」が加わったとすれば、私はもう縁を切っていたかもしれません。
性格が攻撃的になる現象は認知症でも確認されています。認知症の一部は「家族にお金を盗まれた」という根も葉もないエピソードの告白から始まるといいます。
もし親がそうなったとき「この人は障害を抱えているからこうなっているだけで、この人自身は悪くないのだ」と切り分けられるほど冷静でいられる自信は私にはありません。
身体障害と異なって、精神障害は人間的な付き合いの根本が変わってしまうのです。性格が変わって、もう付き合えなくなったために(申し訳なく思いつつも)縁を切った人はいると思います。
そんな時「それでもソイツを助けるのが友人だろ?」と言われればそれまでですが。
人は仏様ではないのですよね。
職場の性格の悪い人を軽蔑できない理由
私がタイトルで「性格の悪い人を軽蔑してよいのか」と書いたのは、だいたい以下の二つの理由によります。
- 性格の悪さが精神障害によるものなのかがわからない
- 性格の悪さが障害由来のものだとして、軽蔑する権利があるかわからない
我々は普段「障害を持つ人間を、障害を持つという理由だけで軽蔑してはいけない」と教わります。
でも翻って考えると、我々は職場の性格の悪い上司や同僚の陰口を叩き、いなくなれいなくなれと呪文のように唱和しています。
「あの人は発達障害だろうし…」とか「あの人はサイコパスなんじゃないの?」と、よく知りもしない病名をあげて性格を揶揄しがちです。
性格が悪いのはその障害のせいだとしても、それでもなおその人を軽蔑し、悪口を叩く権利が我々にはあるのだろうか?それは身体障害者の特徴を揶揄することと同じではないのか?
一体なぜ我々は「性格が悪い人」を軽蔑できてしまうのか。わからない。
考えるほど『見えない障害』の重さを実感し、私は何も言いだせずにいます。…いや、すみません。悪口を言っています。
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