外国人を「子どもみたいでかわいい」と思って接していませんか、それは失礼かもしれません

倫理学
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アイデンティティ・クライシスと外国人

以前、上の記事を書きました。帰国子女やバイリンガルは主に言語の面で周囲から取り残されがちであり、自分の思いを言葉にできないことを理由に孤立を感じる、という内容です。

今回は彼らではなく「外国人」を取り上げてみます。

下の記事では、一人の大人としてアイデンティティ(自己同一性=自分は自分であるという確信)を得た人間が、海外生活によってそれを失ってしまうことが書かれています。

海外生活のストレスや孤独とは?アイデンティティについて悩む理由 | ララビーのあしあと
海外では今まで自分や周りが作り上げた自分とは違ったように見られ、自分のアイデンティティを見失う可能性があります。また、マイノリティの立場になることで孤独感を感じることにもなるかもしれません。そんな中、短所や長所を認めながら時には妥協して『新しい自分』を作っていかなければいけません。 とにかくいろいろ体験して文化や習慣な...

その理由として「文化の違い」「言語の違い」などがあげられています。これは日本人が外国に行って直面する危機、というだけではありません。

外国人が日本に来て直面する危機でもあります。彼らを助けるためには、まず「外国人」になった人間が感じるようなことを知っておく必要があるわけです。

私の周りには多種多様な外国人がいますから、彼らからリスニングしたことを含め、データをもって記していきます。

日本に外国人は何人いるのか知っていますか

まず、あなた自身の知識をはかります。

ずばり、日本に外国人は今、何人いるでしょうか?

ちょっと考えてみてください。

答えは「2,951,365人」(e-Stat 在留外国人統計 2020年6月より)です。

割合としては40人に1人、つまり2.5%

「クラスに一人いる」と考えると多いような気もしますね。

ところが例えば地方に行くとこの割合はがくっと下がります。

それぞれの都道府県人口に占める外国人の割合をみると,大阪府が1.94%と最も高く,次いで,東京都が1.77%,京都府が1.71%,愛知県が1.57%,長野県が1.50%などとなっており,16都府県で1%を超えている。一方,鹿児島県が0.20%と最も低く,次いで,青森県及び宮崎県が共に0.21%,北海道が0.22%,熊本県が0.24%などとなっており,19道県で0.5%を下回っている。

https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2000/gaikoku/00/08.html 赤字は筆者によるもの

鹿児島県の0.2%は「500人に1人」の割合です。

こういった統計を知ると、私の周りにいる多くの人(特に、地方在住)は驚きます。

「えっ!?外国人ってそんなに多いの?」という反応が返ってきます。

身近にいない人間なので縁遠く感じられるのかもしれません。

人間の感情として自然なので軽蔑はしませんが「外国人への無関心」を感じてしまいます。

日本人全員がそうだとは思いません。ただ「日本に住む人の40人に1人が外国人である」という事実を知る日本人はそう多くない…少なくとも過半数は超えないでしょう。

そんな私たちが外国人と接する上で意外に気を付けなければならないことがあります。

外国人を、子どものように扱うということです。

大人なのに子どものように扱われる屈辱感

先ほどリンクしたこちらの記事

海外生活のストレスや孤独とは?アイデンティティについて悩む理由 | ララビーのあしあと
海外では今まで自分や周りが作り上げた自分とは違ったように見られ、自分のアイデンティティを見失う可能性があります。また、マイノリティの立場になることで孤独感を感じることにもなるかもしれません。そんな中、短所や長所を認めながら時には妥協して『新しい自分』を作っていかなければいけません。 とにかくいろいろ体験して文化や習慣な...

では

拒否段階(Rejection stage)では『母国では大人としてふるまえていたのに、海外では小さな子供に戻ったような気分になる』ということを書きましたが、『言葉で不便したり文化や習慣の違いのせいでどう行動して良いのか分からなくなる』ことの他にも自分のアイデンティティが揺るがされるために『青年期の時のような繊細で弱く不安を感じやすくなる心情』自体が「なんか子供に戻ってしまったみたい」と感じている気がします。

https://rallabynoashiato.com/abroad-lonely-identity/

つまり、海外生活におけるカルチャーショックのうち「拒否段階」と呼ばれるステージでは、自分自身が幼い子どもに戻ったように感じられる、とあります。

あなたは小さい時、周りの大人たちに自分の事情を説明しても何もわかってもらえず、非常にもどかしい思いをしたことはありませんか?

私はそれがしょっちゅうでした。

自分が「それは論理的ではない」と思ったことを説明しても「屁理屈だ」と笑われ「また子どもが何か言ってるわ」ぐらいの気持ちで突っぱねられる。

成長してからも学校や職場、家庭でそのような扱いを受けたら(私は)多大な屈辱感を覚えます。自分の考えが全く通らず、むしろ「また何か言ってるわ」と扱われるのは悔しいです。

きっとあなたもそうだと思います。

そして、外国人もまた、この類の感情を抱く可能性があります。

とても悲しいことに、ある種の日本人が外国人を「善意によって」幼い子供のように扱うことがあり、それが彼らにとって屈辱的である、という可能性です。

外国人を子ども扱いしがちな理由は「言語」

いったいどういう流れで彼らを子ども扱いしてしまうのでしょうか。

一つ、とても大きな理由があります。

言語です。

一般に外国人はその国の母語話者と比較して、言語面で非常に不利に置かれています。

「コンビニバイトをするマレーシア人が、店長の日本人と日本語で接する」ような場合。これがその例です。

外国語を扱う時、自分のおかれている立場や事情、自分の感情を表現することが難しくなります。そのため、母語での表現に比べ、非常に幼稚な表現になりがちです。

社会情勢への不平を外国語で語ることの困難は、その人の知能ではなく、たんに言語や語彙の面での習熟の不足によっています。

何かの語学をやっている人は首肯できるのではないでしょうか。外国語でものを考えて表明すると、どうしても母語(日本語)よりも幼稚な表現が多用されがちです。

それは日本人とかマレーシア人というより「外国人」としての宿命なのでしょうがないです。

もし外国人として外国語を使い、その国の母語話者と対等な議論をしたければ、汗と涙が紙面に垂れるほどの多大な努力を要します。

私の知り合いに10年間外国に住んでいる人がいますが、その人は「10年住んでいても、まだ言葉がうまく出てこない場面がある」とのことでした。

毎日、新聞を読んで単語をメモし、日常会話で使おうと試みているにもかかわらず、です。それを10年やっても、まだ母語での意思表明には遠く及ばない。そういう世界。

日本人が持つ「特権」について無自覚になりがち

一方、そういう人を外国人として扱える特権を持つ側は、かれらの間違いを「ちちち」と指を振って訂正し、かれらを幼稚園児とみなすことができます。

しょせん未熟なことばしか使えないお客様として接してしまうのです。しかも厄介なことに、この一連の流れは決して悪意ではありません。

技能実習生を育成する農家と話したことがあります。その方は自分たちの技能実習生を「うちの子たち」とか「本当にかわいくて」と語っていました。

善意なのはわかりますが、言葉にならない違和感を覚えたのも確かです。

彼らは母語を用いて意見を表明できる、立派な大人なのです。私たちと同じようなことを母語で考え、表現する知能と尊厳とが備わった、自立した大人です。

ただそれを「日本語で」表出する能力がないだけ

神戸大学の斉藤善久准教授が朝日新聞に協力を要請されて拡散した「日本に来てよかったですか?」という内容のアンケートが公開されています。

このアンケートに回答したベトナム人200人の気持ちが、母語で表明されています。日本語訳がついているので読んでみましょう。

Tôi không thấy thỏa mãn với cuộc sống và công việc hiện tại,người nhật coi chúng tôi là những lao động giá rẻ không được tôn trọng giống như người nhật,trong khi đó người việt chúng tôi làm việc rất cần cù và chăm chỉ,tôi đang sống trên một xã hội tư bản ở đây người ta thường nghĩ đến dân chủ, bình đẳng, vậy tại sao chúng tôi vẫn bị phân biệt như vậy??tại sao ??tại sao??

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1HFQ3UCuxtJPqjUh4Gh6xYb8EQuWMh8o3Ix6VuZoY-NA/edit#gid=0

この日本語訳は以下のようになります。

私は今の仕事や生活には満足していません。私たちベトナム人は勤勉でまじめに働いているのに、日本人労働者のようには尊重されず、日本人は私たちを安価な労働力としか見なしてくれません。日本のような資本主義の国は、平等性や民主性についてよく考えられているはずなのに、今その国に住んでいますが、私たちは差別されているようです。なぜでしょうか。

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1HFQ3UCuxtJPqjUh4Gh6xYb8EQuWMh8o3Ix6VuZoY-NA/edit#gid=0

ベトナム人と話したことがある方なら、きっと残酷にも「驚いて」しまうでしょう。

日本語で「嬉しい」「悲しい」という幼稚な感情しか伝えられない彼らが、母語となると立派にものを考え、ことばにし、おかれた環境への反感を表明している。

自分自身の差別意識をはっきりと自覚させられる瞬間です。

もちろん逆に、満足していると答えた人もいますが、彼らも「日本人は自分たちを安価な労働力とみなしている面もあるが、実際にこちらとしてはお金が稼げるから働いている」というスタンスです(アンケートにそういう旨の回答があります)。

外国人を子どもとして扱い続けていると…

外国人を「まともな意思表明のできない、幼稚な人間」とみなし続けていると、きっといよいよ日本のことを好きになってくれる人はいなくなるのではないか、という危惧が私にはあります。

私は、無意識的に彼らに向かって屹立しがちな自らの特権を自覚するために、日本語を使って接してくれる外国人たちに、その人の母語を使って簡単な挨拶をすることがあります。

「こんにちは」「ありがとう」レベルのものです。それでも外国人として言語を学ぶ以上、発音を完璧にできるわけではありません。むしろ「下手だな」とさえ思われているでしょう。

でも、発音を何度も何度も訂正してくる彼らの表情はうんざりとは正反対で、なんだか楽しげです。まるで根気強く子どもにことばを教え込む母親のような、慈悲深い母性を感じます。

それは優越感とも満足感とも異なる複雑な感情で、自分のことばを理解しようとしてくれる「外国人」の存在だとか、一時的に母語によってものを考えられるオアシスの発見によるものかもしれません。

異文化理解はこういうお互いの、地道で地味で根気強い努力から始まるのだと信じています。

国籍を超えて語るうえで言語の問題はあまりに大きいのだけれど、人間の普遍性を語るうえで言語の違いなど薄皮に過ぎないだろう、そういった希望が私を異文化交流に駆り立てています。

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