「権利と義務は表裏一体」は多くの点で間違っている

学校教育
この記事は約7分で読めます。

権利が欲しければ義務を果たせ、は間違っている

社会を生きる上で、義務とか権利という用語は大事ですが、にもかかわらずあまりに雑に振り回されがちだと思います。

今回は、よくある思いこみ「義務と権利は表裏一体なのだ」論の誤りを訂正していきます。この論を放置しておくとのっぴきならない結論になるため、訂正が必要だと感じました。

「権利と義務は表裏一体」論

まず「権利と義務は表裏一体」というのは、以下のような考えを指します。

義務を果たせば権利が付与される。権利を使うためには義務を果たす必要がある。

こういった考えのことです。いったい何がどう間違っているのか論じる前に、この論法を具体的な物事に適用したときの流れを見てみましょう。

「生活保護を受けたければ、納税をしている必要がある」。

「女性が自立したければ、まず社会に奉仕する義務を果たせ」。

「LGBTは権利を認めてほしければ、まず子どもをつくれるよう努力しろ」。

このように「○○したければ、○○する義務を果たすべきだ」という論法を、私は「権利と義務は表裏一体論」と呼んでいます。そしてなぜかインターネットではこの主張を(ジョークではなく)非常にまじめな顔で主張する輩が多く、たいへん気になっていました。

この論法は普通に、めちゃくちゃ普通に間違っています。

「権利と義務は表裏一体」はどこが誤っているか

いったいどこが間違いなのか。

実は、権利と義務が表裏一体、という考え方は法学にあります。

ただ、その理解が間違っています。

本来の「権利と義務が表裏一体」論はもっと単純であり、「ん?これが表裏一体なのか?」と思わされるものです。

私たち日本人には、日本の行方を決めるための権利、つまり選挙権があります。投票所で投票をする為の権利です。そして国には、私たちの選挙権を守るために選挙をする義務があります。

こういう意味の「権利」「義務」が、法律における「権利と義務は表裏一体」です。

そしてこれは、民法における契約でも成り立ちます。

もしあなたが車を買えば(契約すれば)、お店からその車をもらう権利があります。そしてお店は、あなたに車を与える義務が生じます(これを法律用語で「債権・債務」といいます)。

これには反論があるでしょう。例えば「車を買うためにはお金を払う必要があるから、やっぱり権利は義務の対価として得られるものだろ!」と。

でもそれは、残念ながら違います。

「双務契約」つまり「お互いが義務を果たす必要がある」形の契約だからたまたまそうなっている(今回は「売買契約」)のであって、これを満たさない契約の種類はあります。それが「片務契約」です。

片務契約の代表例は贈与契約、つまり「相手に何かを譲る」形の契約です。

この場合、譲る側は「相手に物品を与える」という義務があるのに対し、もらう側は「相手から物品をもらう」という権利だけがあります。義務を果たす必要はありません(当然ですね)。

というわけで、本来の意図とは外れた使い方をされているという意味で間違っているのですが、そもそもその誤解された使い方さえも、別の意味で誤っています。

「何かの権利を得るために、義務を果たすべきだ」という価値観は、日本が根幹に据えているある「権利」の概念と著しく矛盾しているのです(つまり、その価値観は誤っています)。

それが「人権」です。

「人権」は対価を果たして得るものではない

近代自由主義でなおかつ民主主義を取り入れている国(日本みたいな国のこと)では広く、人権という考え方がインストールされています。

人権は残念ながら、これこれと理由を付けてはく奪できるものではありません

人権を認めるところから西洋哲学は真にスタートしました。

それ以前は「力が強いもの、富を持つものこそが正義であり、弱く貧しい人間は一方的に迫害されてもしょうがない」という考えが主流でした。

難しい話を抜きにすると、北斗の拳の「世紀末」みたいな社会ですね。

それに徹底的なノーを突き付けたのが西洋哲学でした。

一度、各々の人間が持つ属性を全て取り去り、人間という存在を無限遠に置きます。性別、年齢、貧富、国籍、性格、悪癖…。それら「個人を規定するための属性」を取り除くのです。

最後に何が残るのか。

価値でした。

人間としての価値。

その上で見えてきたのが「人間って、みんな等しいんじゃない?」という考え方です。

これをインストールした西洋社会(政治を牛耳っていた有産的な白人男性)は、その考えを徐々に徐々に、自国民の貧しい人々、他国民、女性、他人種へと広げていきます。

人間の価値がみな等しいなら、条件を付けてその権利をはく奪することもできません。いかにお金があろうと偉かろうと、同じ価値を持つ人間を断罪して人権を奪うことなどできやしない。

日本国憲法はまさしくそのような考えに則っていますし、法律もまた同じです。

例えば、法律で殺人罪が定められているのは「誰でも皆人間としての価値を持つのだから、それを誰かが一方的に奪うことがあってはならない」からです。

もちろん、現状として反論が数多く存在することは認めます。例えば「生活保護を受けられない人がいる」とか「被害者の権利は無視されて、なぜ加害者の権利は認められるのか」など。

しかし理念としてはこういう感じで、人権は何かの義務を果たしたお返しに与えられるものではありません(だからこそ厄介なのですが)。

「条件付き」で権利を認めるとどうなるか

「待ってくれ!人権はそうかもしれないけど、でも実際に義務という条件付きで権利を認めてもいいだろう?」という反論があるかもしれません。

これについては、実は日本人は社会の授業で習ったはずです。選挙権の話。

1889年(いち早く決めよう憲法)に大日本帝国憲法が公布されましたが、その時の選挙権の条件とは「直接国税15円以上を納める25歳以上の男子」でした。

「直接国税15円以上」とはどれぐらいでしょう。

単純に物価で比較した場合は、60万円程度とのことですが、1890年頃の政府予算が約1億円、現在の予算規模90兆円の90万分の1ですので、現代の感覚にすれば、年間15円以上の納税者とは、年間1,300万円以上の税金を納めている人達なのではないかという見解

https://www.ebata-cpa.com/tips/page019/

年間1300万円以上の税金、とはすごいですね。

選挙権を持つ人々はわずか1%でした。

その後、この条件は緩和されていきます。1900年に「直接国税10円以上」となり、1919年には「直接国税3円以上」。1925年に「25歳以上の男子全員」。そして敗戦後、GHQの指示により「20歳以上の男女全員」と。

現在では18歳以上の男女全員となっています。

なぜこのように緩和されていったのかというと、それはひとえに「一部の人にしか権利を認めないと、よい政治ができなくなる」という考えがあるからです。

例えば民主主義における投票制度は、富める者も貧しい者も、男も女も、全員が平等に一票を手にしています。

ここで仮に「富の量に応じて票を分配」すれば(AKBの握手券商法ですね)、一部の富のある人間から人気を得られる政策を行う人達ばかりになってしまいます。

実際、アラブ首長国連邦やサウジアラビアのような富める独裁国家では、政治体制が独裁に近づくほど高層ビルが高くなることが指摘されています(TRENDS: Leaders, Private Interests, and Socially Wasteful Projects: Skyscrapers in Democracies and Autocracies)。

独裁政治は超少数の富裕層が行っていますから、彼らへの人気取りとして、トップが高層ビル建築を命じるのです。もちろん働くのは貧困層や出稼ぎ外国人です。

財布を潤わせるためにビルを建てるのですね。

このような独裁を禁じる民主主義は、一部の人間だけが裕福になる社会を否定し、トリクルダウン(最近効果が疑問視されています)や金融緩和や社会保障によって、貧しい者を一様に救済しようとします。

貧しい者にも人権があるし、自分がいつ貧しくなるかは誰にも予想できないからです。

これを否定し、「国は人々の経済活動に口出しするべきでない」と唱えるのがリバタリアニズムですが、リバタリアニストとて「権利は義務の対価だ」と考えているわけではありません。

誤った単純な思想を支持しないようにしよう!

というわけで、みなさんも「権利が欲しければ義務を果たせ」などという、一見正しいかのように見える考えを雑に振り回すのはやめましょう。

自分が法学について無知であると晒すだけでなく、「人権」という根本的な思想をも全く理解していないことを露呈させます。

知性を安易に手放さないようにしましょう!

続きを書きました。なぜこんな間違った考えが多くの人に支持されるか、考えてみたものです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました